1月26日のエントリーでも書きましたが、若者の就職率の低迷は「経済が成長しない限り企業は若者を吸収することが出来ない。」上記の問題はこれに全て尽きると思います。決して若者の努力不足ではないと思っています。それに加えて「経済は永遠には成長しない。」とも思っています。この点に関しては後日改めて詳しく。
表題について。私は学問を否定するわけではありません。学問は素晴らしいものだと思っています。それを踏まえて「塾などの教育≒大学」とは一体なんだろうかを考えていきたいと思います。
大学は本来、学問の場であったはずが、今はもう多くの大学は「学問の場」とは違う物になっていると多数の人が感じているのではないかと思います。もはや学問のための機関ではなく「就職へのパスポート発行機関」であり「教育産業従事者の雇用確保のための機関」なのではないだろうか?そのパスポートすら経済の成長が見込めない以上、無意味な物になりつつあります。大学は学問を通して社会を発展させる機関であったのに、今ではむしろ多すぎる大学の存在が社会の発展を阻害するモノになりつつあるのではないかとすら思っています。「大学≒塾などの教育」の存在のそのものが社会に対して心理的下方圧力をかけている面も存在するのではないかと考えています。
教育が持つ負の側面
(1)学費
「子供をいい大学へ行かせないと子供の将来が暗い」と考える現役子育て世代に「学費」という重圧をかけていると思います。「塾などの教育費」「大学の授業料」「奨学金の返済」などの費用が子育て世代、またはこれから結婚する世代に心理的重圧、経済的重圧をかけ、非婚化、少子化の要因の一つになっていると思います。
(2)人生観への柔軟性の排除
現在、そして未来、仕事が減っていく世の中で「せっかく高い学費をかけて大学へ行ったのに正社員にもなれずにフリーターになるなんて・・・」という思いが親にも子供にも少なからず存在しつづける思います。また大学へ行かなかったら「大学へ行っておけば・・・」と思う人も存在し続けると思います。その考えが下記の古い価値観へ縛りつけ、新しい時代を考える上での下方圧力となっていると思います。「日本人の幸福な人生観」として漠然と、しかし、根強く存在しているのは「子供のころから塾へ行って、いい大学へ行き大企業へ入り都会でアーバンライフを送ったり、海外で商談をするエリートサラリーマンになること。結婚して、子供を2人生んで30年ローンでマンションか一戸建てを買って老後は年金で悠々自適」という戦後右肩上がりの60年に形成された古臭い価値観だと思います。これからの世の中そんな人生を送れるのはほんの一握りのエリートだけです。それなのに少なくない人が上記の人生を何となく幸せだと思い、その幸せを何となく目指し、その人生から外れたら何となく不幸だ、と思っているのではないかと思います。その価値観を強化しているのが「大学=教育信仰」」だと思います。団塊世代などの「旧世代の価値観」を現役世代に引き継がせて、さらに今後を担う新世代にも旧世代の価値観を植え付ける一つの「媒体」となっているのが「大学=教育信仰」だと思います。
大学の数
1920年 20校
1950年 201校
1970年 382校
1985年 460校
2010年 778校
大学生の数
1985年 185万人
2009年 285万人
データから見ると右肩下がりの若年層人口の中で右肩上がりの大学の数と大学生の数です。「子供のころから塾へ行って、いい大学へ行き大企業へ入り都会でアーバンライフを送ったり、海外で商談をするエリートサラリーマンになること。結婚して、子供を2人生んで30年ローンでマンションか一戸建てを買って老後は年金で悠々自適」という古臭い社会的価値観に付け込んだ教育詐欺の蔓延です。この詐欺の蔓延が「子育て世代に与える経済的心理的重圧」「既存の価値観への束縛」≒「日本社会に与える下方圧力」の一つとなっているのではないかと思います。学問が社会にもたらす利益より、形では表せない不利益のほうが大きくなってしまったのではないでしょうか。
これからの日本は多くの人が既存の価値観とは違う生き方や幸福論を考えなければいけないと思います。教育詐欺は若年層人口の減少により淘汰されていくでしょうが、教育詐欺に騙されないそれこそ真の主体性を持った新しい価値観が生まれればいいなと思います。