蟻の社会科学

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【88冊目】構造と力~記号論を超えて~ 浅田彰

構造と力―記号論を超えて

構造と力―記号論を超えて

  • 作者:浅田 彰
  • 発売日: 1983/09/10
  • メディア: 単行本

 コロナ禍以降の社会を見ていると、経済の急激な縮小、それと反比例する金融市場の膨張、家賃を払えなくなった人の急増、リモートワークの急拡大など、限界まで合理化された社会の内側に隠されていた本質的な不安定さというものが露わになり、さらにその振れ幅を大きくしているのではないかと思う。そんな社会を見ていると、ポスト構造主義がこのような社会の本質的な不安定さを見抜いていたのだなと思い、改めてポスト構造主義の本を読み返している。1980年代に現代思想マイルストーンとして一世を風靡した本書を改めて読み返すと、半分くらいは何が書いてあるかよくわからない(笑)。わかる部分だけかいつまんで書評を書いてみる。


近代社会のダイナミズムは脱コード化の必然的帰結である。脱コード化の結果、コスモスは沈黙する無限空間へと還元され、ノモスは解体して人々は共同体の外に放り出される。コスモスーノモス構造の解体は、そのままでは文字通りのアノミーに、つまりカオスの全面展開に、つながりかねない。今や新たな解決が求められることになる。ここで近代社会がとった解決は、きわめて陳腐なものと言ってもいいかもしれない。象徴秩序の紐帯が緩み切った所で、excesを抱えてじっとしていることに耐えられなくなたっとき、人々はわれがちに一方向へと走り出す。何か絶対的な到達点があるわけではない。走ることそのものが問題なのである。一丸となって走っている限り、矛盾は先へ先へと繰り延べられ、かりそめの相対的安定感を得ることができる。しかし、足を止めたが最後、背後から迫って来るカオスがすべてを吞み込むだろう。それを先へ先へと延期するためにこそ、絶えざる前進が必要になるのである。こうして、近代社会は膨大な熱い前進運動として実現されることになる。

P100より引用

 
 上記の部分が、個人的には本書の核心に近い部分だと考え抜粋した。この部分を土台として私なりのポストモダン社会観を下記にて記述する。
 マックスヴェーバーが「呪術からの解放」と称し、テンニースが「ゲマインシャフト(≒血縁地縁共同体)からゲゼルシャフト(≒会社縁共同体)への変遷」と表現したように、近代社会の特徴は旧秩序の脱コード化(≒解体)が本質である。ゲマインシャフトが解体されて、裸のアトムとなった個人はゲゼルシャフトに吸収された。ゲゼルシャフトの一員として、ブランドや情緒的価値という「記号」を消費する消費社会の中で、上述の「近代社会の膨大な熱い前進運動」の中に組み込まれる。その前進運動に何か絶対的な到達点があるわけでもないが、一丸となって走っている限り、矛盾は先へ先へと繰り延べられ、かりそめの相対的安定感を得ることができる。しかし、今回のコロナ問題のように一度止まってしまうと、追いかけ続けてきたカオスにあっという間に呑み込まれてしまう。
 脱コード化され、全ての縁から切り離された裸のアトムが大量に存在する現代社会で、裸のアトムはこの漆黒のカオスの中で一体何を寄る辺にしていけばいいのだろうか。また今回漆黒のカオスから逃げられた人もいつかは追い付かれるかもしれない。20世紀後半に流行したポストモダン思想が指し示しているのは今まさにこの時代とこれからの時代なのだろうと本書を読んで思った。

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資本主義

 「資本主義」とかいう単語を書くと、何か左寄りの人みたいであまり書きたくはない(笑)が、今回は資本主義についてまたまた書いてみる。
 資本主義の原理を捨象して根本原理だけを書くと「有限の中での無限の拡大」になるのではないか。この資本主義というシステムは「有限の中での無限の拡大」という根源的な矛盾を抱えながらも、ヨーロッパでの産業革命以来、正に無限の拡大を続けてきた。とは言え、原理的に決して乗り越えられない矛盾を抱えていることに変わりはない。「有限の中の無限の拡大」という矛盾が21世紀になってあらわになっているのではないか。「有限の中の無限の拡大」に対しての障害が、現在徐々に姿を現していている。それは下記の三点になるのだろう。

1.人口の減少
2.供給力の拡大と市場の飽和
3.資源や環境的な側面からの制限

 これからの時代、300年続いた資本主義の宴を忘れて、この現実を直視しなければいけない時代になっていくのではないだろうか。

(10年ブログをやっていますが、10年前と同じことを書いていてまるで成長していない・・・)

【87冊目】ごまかし勉強(上)(下) 藤沢伸介

ごまかし勉強〈下〉ほんものの学力を求めて

ごまかし勉強〈下〉ほんものの学力を求めて

 学校に行きたくありません。特に理由はないです。学校に行っていると、こんなことして何になるんだろう・・・・と不安になります。
 ずっと何の迷いもなく学校に行って、まじめに授業受けてそのまま進学しました。でも今、ばかなことみたいに思えます。半日も机に座って人の話を聞いてノートに書いて、そのことを覚えているかテストして・・・。卒業して何になるんでしょう。うまく言えないけど学校に行く意味が分かりません。
 勉強は嫌いではありません。ただ、決められたことを決められたペースでやらなければならないことに疑問を感じます。だからと言って特にやりたいことがあるわけでもなく、どうすればいいのかわかりません。
 とりあえずこのまま高校を卒業すべきなのか、他に何かした方がいいのか教えてください。
(二〇〇一年七月二十四日朝日新聞朝刊)   本書上巻P2より引用

 もはや、はるか昔のことであまり覚えてもいませんが、私も小中高時代の勉強において「これを覚えて一体何か意味があるのだろうか?」と考えていたような記憶があります。これは私だけではなく多くの人が何となく感じていたのではないでしょうか。小中高の勉強は意味があるのかという問いに対して、結論から言うと「意味がある。」と思います。しかし、最大の問題は英国社理数の本当の意義を教えることなく、ただテストのために知識を丸暗記させている教育方法に問題があるということになるのではないでしょうか。本書では知識の丸暗記してテストが終わったら忘れるような勉強方法を「ごまかし勉強」と呼び、そして教育産業自体がごまかし勉強を助長するようなシステムになっているということを、教育心理学、教育社会学など多方向から批判的に検討しています。
 なぜごまかし勉強が教育に蔓延しているのかを理由を考えます。「本能寺の変が起こったのは何年か四択から選べ」という問題は簡単に正確に採点することが可能です。しかし「本能寺の変が起こった理由について自らの考えを述べなさい。」という思考力を問う問題を正確に採点することは非常に困難です。なぜなら、明確な答えがない上にほぼ無限の選択肢が存在するからです。知識の暗記力というのはマークシート等で簡単に採点し偏差値をつけることが出来ますが、思考力を採点するというのは非常に困難です。生徒に答えのない問題の正解を、無限の選択肢から選択させて組み合させて、かつそれを公平に採点するということは、経済的にも人員的にもリソースが限定されている現在の教育システムでは現実的には不可能である、というのもまた一つの事実です。結局は現状の教育では知識の暗記力という方法でしか現実的には成績をつけられないし、教育産業全体のベクトルがそのような知識の暗記力を優先するシステムとなることを止めることも難しいというのも理解できます。
 しかし、これからの時代はもはやそのような教育観では通用しないのではないでしょうか。これからは今日まで通用したことが明日には通用しなくなるような変化の速い社会の中を私たちは生きていかなければいけません。そんな時代において既存の知識を暗記することにどれほどの意味があるのでしょうか。既存の知識を能動的に組み合わせて、変化を予測し、変化に対応していく能力というものが求められている時代です。そんな時代の中で知識の丸暗記力を競う教育を変えていかなければいけないのではないか。
 現状の教育システムの改革を目指すために、現状の教育の問題点を考える上で、本書は非常に参考になります。

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