蟻の社会科学

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これからの新しい社会のシステムと考え方(1)コモディティとコミュニティのクラスター社会時代へ【再掲】

 先日、「人新世の資本論」を読んで書評を書きましたが、「(´-`).。oOそういえば、俺も以前こんなこと考えてたなような気がするな・・・」と思い出してブログを検索したらそんな記事が出てきたので参考までに記載します。しかし、昔の文章を読むと本当に下手だ(笑) 今も別にうまくないけど。

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【91冊目】人新世の資本論 斎藤幸平

人新世の「資本論」 (集英社新書)

人新世の「資本論」 (集英社新書)

 2020/12/24現在、Amazonの経済学カテゴリで1位になっている本書について書評を書きたいと思います。本書は資本論後の後期マルクスを読み直すことで新たなマルクス像を描き出し、それを援用しながら現在の資本主義を批判的に解釈し、未来への展望を示しています。先日、ブルシットジョブの書評を書きましたが、やはりこのご時世、資本主義へ懐疑的な見方が広がっているのでしょうか。
 まず本書の意訳を記載して、その後に私の意見を書きたいと思います。

 第一章 気候変動と帝国的生活様式
 第二章 気候ケインズ主義の限界

  
 20世紀以降の大量生産大量消費を伴う人類の活動により、二酸化炭素の排出量は指数関数的に増えている。その温室効果により地球の気温は大きく上昇し、世界的に自然災害が頻発しており、もはや人類の存亡に関わる問題になりつつある。
 温暖化を止めるために世界の政府が連携して様々な対策を行っているが、根本的な対策には程遠く、うわべだけの対策となっている。環境技術の発展により、環境を保全しながら経済成長も追い続けることが可能であるとする「緑の経済成長」など単なる夢物語である。エコバッグやエコカーなどと「エコ」を謳った商品など、所詮は先進国の自己満足にすぎない。先進国の繁栄の陰にあるのは、後進国からの略取と産業の残渣の押し付けである。
 このままでは世界は持続することが出来ない。現在の資本主義システム自体を抜本的に見直す必要がある。

 第三章 資本主義システムでの脱成長を撃つ
 
 先進国でも経済の成長は止まり、貧富の差が激しくなってきている。そんな時代の中、「脱成長」が巷では唱えられているが、多くの脱成長論は資本主義という枠組みの中での脱成長論であり、下手をすれば単なる長期停滞の言いかえである。

 第四章「人新世」のマルクス

 ここでマルクスを呼び戻そう。前期のマルクス進歩史観共産主義者と理解されているが、「資本論」後の後期マルクスが残した資料を丹念に読み解いていくと、完全に方向転換をしていることがわかる。後期のマルクスは農的生活を基盤とした共同体主義者となっていたのだ。農的生活を基盤とするとは言え、決して資本主義の果実を否定しているわけではない。農的な方向性の共同体を軸として、その中にいかに資本主義の果実を取り入れて持続可能な定常的な社会を目指していくか、そこが後期マルクスが目指した地点である。

 第五章 加速主義という現実逃避

 「加速主義は、持続可能な成長を追い求める。資本主義の技術革新の先にあるコミュニズムにおいては、完全に持続可能な経済成長が可能になると主張するのだ。P207」技術革新による経済成長の維持は可能だろうか。それを考える前に資本の作用というものを下記にて考えてみよう。
 資本は産業や業務を細分化していく。細分化された作業は誰でも行うことが出来るようになる。労働者はその作業の意味さえ知ることなく細分化された作業を行う。誰でもできる単純作業の集合体が、職人よりも速く、同じクオリティか、それ以上のものを作ってしまうのである。資本は全体構造を「構想」と「実行」を完全に分離して、労働者は実行するだけのロボットとなり、「構想」という主体的能力を失う。
 このように「構想」という主体的能力、想像力を奪われた人々が「緑の経済成長」や「加速主義」に看板を変えた資本主義の枠組みにとらわれ続ける状態で世界を変えることが出来るのだろうか?

 第六章 欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム
 第七章 脱成長コミュニズムが世界を救う
 第八章 「気候正義」という梃子

 
 資本主義とはそもそも「欠乏状態」が必要だ。社会の中に人為的に「欠乏状態」を作ることで、その欠乏を埋め合わせるために欲望と消費が喚起され、資本主義を動かす燃料となっている。欲望と消費を喚起するために、社会関係の全てが「合理的なシステム」に置き換えられ、相互扶助などの人間関係さえも金銭に変えられる世界となっている。
 ここまで見てきたように、環境を破壊し続け、貧富の差は拡大し、想像力を失い、欲望と消費に駆り立てられ、人間関係さえも金銭に置き換えらえる世界。全ての縁から孤立した人々が増え続ける無縁社会。そのような社会は持続可能なのだろうか。否、脱成長とコミュニティこそがこれからの時代に目指すべきところなのではないか。


 ここまでが本書の意訳です。最後の六七八章は意訳というか、ほとんど僕の考えになっています(笑) 自分で言うのもなんですが、僕がこのブログの前期にテーマとしていたこととほぼ同じようなことが書かれていて驚きました。
 このような資本主義のアンチテーゼとしての農的生活への回帰という考えは決して古い考え方ではありません。早くも18世紀、19世紀にもそのような考え方はありましたし、武者小路実篤新しき村」、「ヤマギシ会」、70年代ヒッピーの「コミューン」も同じような思想の流れを汲むものと考えられます。しかし、これまでの「自然回帰的思想」は「啓蒙思想」「資本主義」という超巨大なパワーの前には風前の灯のようなもので、一般的には「左翼的(共産主義的)な自然を愛する人の同好会」というようなものとしてしか社会に認知されていなかったと思います。
 しかし、近年においては、このような考え方も社会の中で一定の影響を持ってきたのではないかと思います。先ほども書きましたが、

(1)環境を破壊し続け、自分たちの生活環境さえも危うくなってきているのに、「緑の資本主義」など詐欺まがいの主張を繰り返す。
(2)世界的に格差が拡大し続けていて、先進国でさえ明日の食事と住む場所に事欠く人々が増えている。(決して食料や住む場所が足りないというわけではない)
(3)極限まで細分化された作業を繰り返し、想像力を失った人々。
(4)欲望と消費を駆り立てられ、「使用価値」のないモノやサービスを追い求める人々。(哲学者ボードリヤール風に言えば「記号の消費」)
(5)相互扶助などの人間関係さえ金銭に置き換えられ、金の切れ目が縁の切れ目と言わんばかりに全ての縁から切り離されて孤立する人々。(アトミズム)

 このような社会が持続可能でしょうか。このような社会は幸せなのでしょうか。もちろんこの問題に正解はありません。しかし、僕たちはこの社会について、他人事ではなく本気で考えなければいけない時期なのではないかと思います。本書はこれからの社会について考えるための多くの示唆を与えてくれます。

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ムラ社会に生きる日本の「サラリーマン」 “気楽な稼業”がもはや成り立たないワケ

bunshun.jp
 書評を書こうと思って早起きしたけど、書ききれなかったので文春からの引用。これからは運という要素が大きくなっていくだろうか。未来なんてもう誰にも分らない。

本を売ろうかな

 本が溜まって邪魔になってきた。売った方がいいんだろうけど、「また読むかも・・・」と思うのと、面倒くさくて放置している。まあ何回も読み返す本なんて100冊に1冊あるかないかなんだけど・・・。メルカリとかやり方がわからないんでちょっと勉強しようかな。

灰色の世界と認識の有限性

 そもそも、世界は始まりも終わりもなく、白も黒もない灰色の世界であるが、人間は灰色を認識することが苦手である。灰色の世界を自分の好きな範囲だけ切り取って、白か黒か論じている。その切り取った部分には部分的には白っぽい部分も黒っぽい部分も含まれている。しかし、白(と思い込んでいる)に黒っぽい部分が含まれていたら間違っていると考えて、黒(と思い込んでいる)に白っぽい部分が含まれていたら間違っていると考える。自分で好きな範囲だけ切り取って白(または黒)と決めつけた世界は、実は灰色であり、その灰色は均質ではなく白っぽい部分も黒っぽい部分も含まれている、ということを認識することは結構難しい。
 この世界はとてつもなく大きくて、一人の人間が得られる知識はとても少ない。どんなに頑張ったところで知っていることより知らないことの方が圧倒的に多い。無知であること、それは全ての人間が避けることが出来ない運命である。そして、その限られた知識に基づいた「モノの見方」は、物事のほんの一側面を部分的に見ているに過ぎない。
 しかし、この事実を認識することもとても難しい。なぜなら僕たちはこの灰色の世界の中で、その限られた知識だけを頼りに毎日を生きているからである。その限られた知識を信じる以外にはほかに何も信じるものはない。もし、この世界が灰色で、しかもその一側面しか見えていないという事実を知ってしまい、その事実を認めてしまったら、一体何を寄る辺に生きていけばいいのだろうか。そんな不安定な世界を認めるぐらいなら、自分の限られた知識に基づいて物事のほんの一側面を部分的に見て、白か黒か決めつける方がずっと安らかに生きていける。
 安らかな世界に居続けられるなら居続けたいが、世界はこちらの願望など無視してどんどん変化していく。白と思っていたものが黒に変化したり、その逆もまた然り。もともと世界は灰色なのだから、すぐに白っぽくも黒っぽくも変化する。そんな世界の中で生きている僕たちは、この世界の全てを知ることも、この世界を変えることも決して出来ない。しかし、僕たちは自らの認識や世界観を変えていくことは出来る。常に新しい知識に更新しながら、この世界に対する認識を変えていくことが出来る。それこそが人が持つ強さなのだろう。


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内発的動機と形式陶冶(学習転移)

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 僕は教育者でも何でもない素人です。しかし、教育についてよく考えることがあります。人を教育したいというわけではなく「6334の16年も高い学費を払って勉強したのに身についているものがなぜこんなに少ないのか?」という点に強い疑問を持ち、以来教育とは何かを考えています。まあ、何も身についていないのは、何も勉強していない自分のせいなのではありますが(笑)
 しかし、「教育とは何か?」というとてつもなく大きな問題を簡単に考えることは出来ません。上図を見ると教育学も多岐の分野に渡っていて、一体教育とは何なのか、その輪郭がぼやけてしまって、よくわからない面もあると思います。その輪郭がぼやけた構造の中から、教育というものに立ちはだかっている二つの大きな論点を今回は切り出したいと思います。一つ目は内発的動機に関して。二つ目は形式陶冶(学習転移)と実質陶冶についてです。恐らくこの二点が教育を考える際の根源的論点となってくるのではないかと考えています。

 1.内発的動機と知的好奇心
 古代ギリシャの哲学者プラトン「無理に強いられた学習など、何一つ魂に残りはしない。」という言葉を残しました。正にこの言葉こそが教育が直面する最大の問題を的確に表していると思います。いかに学生のやる気と興味を引き出し、強制ではなく能動的に主体的に学習へ向かわせるか、内発的動機と知的好奇心をいかに育むか、これこそが教育という概念が人類に誕生して以来の最大の問題なのではないでしょうか。
 言うのは簡単ですが、実際この問題を解決することは簡単ではありませんし、全ての学生を主体的に学習に向かわせる方法というのは、永遠に解決しない問題なのかもしれません。生徒が勉強にそれほど興味を持てないというのもよく理解できます。勉強するよりスマホやゲームや漫画を見ている方が楽しいでしょうし、勉強がわからなかったり、テストで悪い点を取ればやる気も興味も減るでしょう。先生に「やれ」と言われれば反発したくなる気持ち(心理学用語でリアクタンスという)が芽生えることもよく理解できます。
 また、問題をさらに複雑にしているのが「勉強に興味がなくても、暗記と忘却の繰り返しで、場合によっては一流大学を卒業することも可能である。」という点ではないかと考えています。教育心理学者の藤沢伸介はこの暗記と忘却の繰り返しの勉強を「ごまかし勉強」と命名しましたが、このごまかし勉強でも一定の成果を出すことが出来るという点が、教育に存在する問題の所在を曖昧なものにしてしまっているのではないでしょうか。(この「ごまかし勉強」についてはこちらの記事で少し詳細に記述しています。)
 平成29年改訂の学習指導要領では「主体的な学び」「対話的な学び」「深い学び」という言葉で、生徒の学習に取り組む主体性の重視を打ち出しました。この「主体的な学び」という人類の教育史に数千年にわたり立ちはだかる大きな壁をどのようにして乗り越えるか、これまでも、これからも永遠に立ちはだかっていく問題になると思います。

 2.形式陶冶(学習転移)と実質陶冶
 もう一つの教育に関する根源的なテーマが形式陶冶と実質陶冶の問題になるかと思います。突き詰めれば、教育とは何かを考えたとき、この問題にたどり着くのではないでしょうか。
 簡単に形式陶冶と実質陶冶について説明すると、

形式陶冶:どのような勉強でも、たくさん勉強すれば勉強した分だけ「思考力」や「学習能力」という実体のない抽象的で「汎用的な思考力」が養われて、勉強した分野以外でもその能力を発揮できるという考え方。(学習転移とも言います。)
実質陶冶:人間の知識は、勉強や経験した分野固有のものである。(これを知識の領域固有性と言います。)その分野を超えて「汎用的な思考力」が身につくことはないという考え方。

 形式陶冶が存在するか、それとも存在しないか、この問題は簡単に結論を出すことは出来ませんし、白か黒かという問題ではありません。しかし、これまでの学習に関しての様々な研究から「形式陶冶(学習転移)に関してはそれほど大きな期待は出来ない」という結論が出されているのではないかと個人的には考えています。
 これは教育に対してかなり深刻な問いを投げかけることになります。確かに「学校で学んだことなんて社会じゃ役に立たない。」など言われることもありますが、それに対して「学校で学んだ知識は直接的に役に立たなくても、思考力を育むのが学校だ。」という形式陶冶寄りの擁護で、我々は教育というものを正当化してきました。しかし、形式陶冶にそれほど大きな期待を持てないということは、言い換えると私たちが長い時間と高い学費をかけて学校で学んでいること(学んできたこと)は学校のテストでいい点数を取るためにしか役に立たずに、実際には大半は意味がない、という深刻な問題にすら発展しかねません。

 以上二点が、私が考える教育の根源的論点です。前者に関してはこれまでもこれからも解決はしない問題であり、絶え間ない改善を目指す問題です。後者に関してはかなり深刻な問題でありますが、見て見ぬふりをすることもできない問題です。
 教育というのはテストで高得点を取る方法を教えることではないと思います。しかし現状では教育とはテストで高得点を取ることが目的となっている面も少なからずあると思います。それも確かに重要なのかもしれませんが、上記のような教育の最も根源にある問題を、社会的な問題として俎上に載せて議論していくことも重要ではないかと考えます。

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因果論的要素還元主義

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 僕の思考は基本的には因果論的要素還元主義の立場に近いと思っています。事象の因果律を抽象と具体を往復しながら概念化し、モデルに変換して考えるシンプルな思考法です。ただ、これが絶対的に正しい方法とも善だとも考えていません。
 因果律なんてありとあらゆる方向から疑問符をつけることが出来ます。経験論、観念論、形而上学量子力学統計学(疑似相関、確率論)など様々な角度から事象の因果律を批判的に解釈することが出来ます。要素還元主義も同じように、全体論複雑系、一般システム理論など様々な角度から批判することが出来ます。
 しかし、因果論的要素還元主義が正しいとは言わないまでも、決して間違った方法論でもないと考えます。人間の思考方法と最も親和性があり、科学の最も基本的な思考法、方法論だと思います。科学という営みの最も根源に据えられている土台になるのではないでしょうか。繰り返しますが、因果論的要素還元主義が絶対に正しいわけではないからと言って、それが間違っているということには決してならないと思います。この最も基本的な方法論を用いた論理の積み上げをこれからも研鑽していきたいと思います。

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