蟻の社会科学

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日本を思考停止させるシステム (4)国際競争力という大義名分

フォーディズムwikipediaから引用

フォーディズム(Fordism)とは、大量生産、大量消費を可能にした生産システムのモデルである。現代の資本主義の象徴の一つであり、社会学や経済地理学、レギュラシオン理論などで言及される。イタリアの思想家、アントニオ・グラムシの命名による。また、フォード社の経営理念を指すこともある。
概要
アメリカのフォード・モーターが科学的管理法を応用して開発した生産システムであり、フォード・モデルTの成功を受けて1950年代から普及していった。その中心はベルトコンベアであり、コンベアの速度が生産能率を決める、という仕組みになっている。製品の単純化、部品の標準化などが特徴として挙げられる。生産高に比例して賃金も上昇する生産性インデックス賃金が取り入れられたことで、労働者の士気が上がり、購買力も上昇した。このように、フォーディズムは高度成長経済のために欠かせないモデルとなった。
後のトヨタ自動車の生産方式(論者によってはフォーディズムにちなんでトヨティズムと呼ばれる)にも影響を与えることになった。
レギュラシオン理論においては、フォーディズムはさらに広範に、第二次世界大戦後から1970年代までの高度経済成長期の経済体制を指す。すなわち、生産性の向上による大量生産の実現(内包的な蓄積体制)に対して、消費拡大による好循環を生み出すために、労働組合の承認、最低賃金制度の確立、ケインズ経済政策や社会保障政策を通じた需要拡大などが図られた(独占的な調整様式)。

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 え〜、ややこしいことを書いてありますが、フォーディズムを俺なりに簡単に解釈すれば企業の規模の拡大と効率の上昇に比例して労働者の賃金も上げて経済全体を拡大させるシステムって感じですか。日本の高度経済成長期に燦然と輝いたシステムです。
 ただし、フォーディズムは「人口ボーナス期」と「技術のイノベーションによる需要の拡大期(「3種の神器」に代表されるような物質的な需要)」にのみ有効性を発揮するシステムであって、現在の多くの先進国で見られる「人口オーナス期」「(物質的)需要の飽和期」にはさほど有効な社会的システムとは思えません。(人口ボーナス、人口オーナスについては適当に調べてください(;´Д`))
 しかし、現在の日本でもこのフォーディズムをベースとした価値観が漠然と、根強くあるのではないでしょうか。2月13日の記事で書きましたがこのフォーディズムをベースとした価値観から生まれるライフスタイル「子供のころから塾へ行って、いい大学へ行き大企業へ入り都会でアーバンライフを送ったり、海外で商談をするエリートサラリーマンになること。結婚して、子供を2人生んで30年ローンでマンションか一戸建てを買って老後は年金で悠々自適」を送ることが幸せという価値観が根強く社会に蔓延していると思います。

 この価値観の根強さが表題の「国際競争力」に大義名分を与えていると思います。「国際競争力という大義名分」の下に、「海外に進出しなければならない。国際競争に勝たなければならない。勝たなければ未来はない。勝つためには努力不足の連中など切り捨てなければならない。質の低いゆとり教育の草食系の若者などかまっている暇はない。自己責任だ。」という論調につながるのでしょうか。「競争に勝つためなら全てを犠牲にしても構わない」「健康になるためなら死んでも構わない」と言い換えられるような、何か倒錯したモノを感じるのは俺だけでしょうか・・・
 俺は牧歌的な社会主義共産主義的「労働者に権利を!」のような主張はするつもりはありません。「経済成長」も「国際競争」も否定をするつもりはありませんが、それは経済成長が永遠に続くと仮定した場合のみです。海外の新興国とて永遠に成長するわけではありません。いずれは成長は止まるでしょう。それが見えているのであれば、先んじて、その先にある何かを考えなければいけないのではないかと思います。
 努力不足と形容される人達は確かに努力が足りない人が多かったかもしれませんし、今の若者は覇気が少ないかもしれません。しかし、それを「経済成長、国際競争、自己責任」という大義名分の下に「努力不足」と切り捨ててしまっては社会そのものがいずれ成り立たなくなるのではないだろうかと思います。いや、「切り捨てる企業側に問題がある」「切り捨てられる労働者側に問題がある」「そういう制度を作る政府に問題がある」というような 「マルクス主義vs新自由主義」 という構図ではなく、上記のような「戦後60年間に生まれた人生のモデルケース的価値観」に置き換わる価値観が社会に乏しいのが一番の問題なのではないかと思います。
 そういう旧来の価値観に基づくエコノミックファシズムに囚われることなく、「俺は年収250万だけど嫁も子供もいるし、楽しく生きているぜ。「海外の経済成長」なんて得体の知れない物に人生を預けるつもりはないぜ!」と思えるような社会システムを考えることが重要なのかな〜と思います。