人はわざわざシステム思考を身に付けようと思うだろうか?
このブログでは「システム思考」をひとつのテーマにしている。そもそも人は、わざわざシステム思考を身につけようと思うだろうか、と考えるようになった。この問いを考えるたびに、システム思考の祖ブッダも、行動経済学の大家でノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンも、日本の認知科学の重鎮の先生も、その点については否定的な見解だったことを思い出す。人間は無意識のうちに複雑な因果関係を単純化し、目の前の現象のことしか考えない。だが、それが普通なのではないだろうか。
考えてみれば、わざわざ物事の原因や結果を遠くまでさかのぼって考えることほど面倒でエネルギーを消費する行為はない。私たちの脳は、効率的に生存するために進化してきた。そのため、無駄な思考を避け、最短距離で答えにたどり着くことを本能的に好む。毎日特に大きな問題なく、平穏に生きていられるのなら、わざわざ脳に負荷をかけ、はるかなる過去や未来へ思いを馳せて、世界の複雑な因果関係を考える必要もないだろう。
たとえば、朝起きて会社に行き、仕事を終えて帰宅する。この日々のルーティンの中で、自分がなぜこの仕事を選び、この生活を送っているのか、その背後にある社会構造や個人的な選択の連鎖を深く掘り下げる人は少ない。それよりも、今日の夕食の献立や、週末の予定や、好きな漫画やテレビ、Youtubeやinstagramのことを考える方が、はるかに現実的で、脳にとっても楽なことだ。システム思考は、いわば「脳の筋力トレーニング」のようなものだ。しかし、日常生活で特に必要性を感じなければ、わざわざその筋肉を鍛えようとは誰も思わない。むしろ、現状を維持し、安定した状態を保つことこそが、多くの人にとっての目指す状態ではないだろうか。
会社でもよほど大きな問題がない限り、わざわざ今の業務を効率化しようとは思わないものだ。周囲の人間と軋轢を引き起こしてまで業務効率化を進めて、一体何の意味があるのだろうか。まして、それを人に勧めてどうなるというのだろうか。ことと次第によっては、単なる「ロジハラ」となってしまい、相手が作り上げてきた世界観を否定するだけになってしまうのではないのか。
最近ではAIの台頭などもあり、論理的思考やシステム思考を駆使して、わざわざ脳を酷使する必要もない時代なのかもしれないなと、少し寂しいがそう思うようになった。