はじめに
20世紀後半から、先進諸国は物理的な人手を多く必要とする労働集約型の工業社会から、「情報」や「知識」という物理的な形を持たないものを産業の中心とする知識集約型の「情報化社会」へ転換したといわれています。
20世紀の工業化により、車や家電製品など、文化的で快適な生活を送るために必要な工業製品を一通り手に入れた先進国の人々は、経済成長の新たなフロンティアを「情報」や「知識」という形のないものに求め、ラジオ、テレビ、映画、出版、通信、ゲーム、教育など、言葉や文字や記号が飛び交う仮想空間に活動の場を大きく広げました。
知識集約型の情報化社会では、情報を作り出して流布することで新しいマーケットを作り出し、消費者の欲望を喚起し、消費を呼び起こすことが重要なサービスとなりました。また、モノやサービスを提供することもさることながら、モノやサービスを提供するための知識や方法論が重視され、その知識を手に入れるための最新の情報それ自体も商品となります。
その結果、情報や知識そのものを作り出し販売するマスコミや広告代理店などの情報産業や、その情報を管理する仕組みを考えるIT産業、または研究者、弁護士、会計士、コンサルタント、教育など専門知識を売りとする産業など、情報や専門知識という形のないものを取り扱うサービス業が経済の中心の一角を占めるようになり、「情報」や「知識」が社会の中でますます大きな力を持つようになりました。
今日、情報化社会へ転換して約半世紀が経ちましたが、21世紀に入ってからはコンピューターとインターネットの発展により、前述の情報関連産業に限らず、人類が取り扱う情報の量は年々指数関数的に増大しています。特にここ2年のコロナ禍においては、情報通信産業の隆盛は凄まじいものがあります。テレビのニュースからは世界中の映像が常時垂れ流され、Amazonプライムやネットフリックスなどサブスクリプションサービスにより様々な娯楽映像をOn Demandでいつでも見ることも出来ます。スマホにはSNSの通知などが24時間ひっきりなしに届き、ネットゲームやメタバースなどの仮想空間の中に一日中入り浸る人も決して珍しくはありません。ZOOMなどの新しいコミュニケーションツールを活用して、テレワークなど場所を問わずに働くことが可能になるなど、情報の受発信の形態の進化と、情報量の増加はとどまるところを知りません。現代人は江戸時代の人が一年間で取得するのと同じ量の情報を一日で取得するともいわれています。まさに情報の洪水で窒息死しそうなのが現代社会なのではないでしょうか。
この記事では「情報」について考えたいと思います。しかし、情報というのは形がないものなので、そもそも情報とは何なのかを定義することも、考えることも一筋縄ではいきません。この形のない得体の知れないものをどう処理すればいいかもわからずに、気が休まる間もなく、常に追いかけられて精神をすり減らしているのが現代人ではないでしょうか。
このような超高度情報化社会を生きていくために、情報リテラシー(情報を十分に使いこなせる能力。 大量の情報の中から必要なものを収集し、分析・活用するための知識や技能のこと。)の重要性は強調しすぎてもしすぎることはありませんが、情報リテラシーを習得するためには、「そもそも情報とは何か」という「メタ情報(情報についての知識)」も考える必要があるのではないかと考えています。また、コンピューターやインターネットによる情報処理技術がいくら進歩しても、情報を最終的に処理するのは「人間の脳」であることを踏まえると、「情報と人間の脳の関係性」についても考える必要があるのではないかと思います。
この大量の情報によって窒息死しそうな社会を考えるための手がかりとして、「情報」とは何かを多角的に考え、情報と人間の関係性に一定の枠組みを構築できればと思います。
第一章 情報の構造
情報とは何か
まず初めに「情報」とは何か、その概要と定義について考えたいと思います。情報というものはそもそも形がないものなので、見る角度によって様々な解釈が生まれ、必然的に多義的になります。基本的には正確に定義することは出来ないものと思われます。
Wikipediaには情報について下記のように書かれています。
JISの定義では「事実、事象、事物、過程、着想などの対象物について知りえたことであって、概念を含み、一定の文脈中で特定の意味を持つもの」とされています。こちらの定義もかなり漠然とした印象があります。
繰り返しになりますが、情報は形のない概念上の存在なので、結局は抽象的な言葉を組み替えることによって漠然と表現することになるのではないかと思います。
それに倣って、私なりに情報をざっくりと定義しますと こんな感じでしょうか。ここからこの定義に則って、情報について私なりに考えていきたいと思います。