衣食住のうち、衣と住は無くてもすぐに死ぬことはありませんが、食は生命に直結するまさに命の源と言えるものです。原始時代より人々は火を囲み、共に命の源である食事を取ることで、同じコミュニティの人々と時間と空間を共有し、縁を紡ぎ、社会を作り続けてきました。食事というものは、個人にとっての生命の源であり、また社会にとっては縁とコミュニティを紡ぎだすための一つの儀式であり、装置としての役割を持っています。このように個人と社会を支える根源的な物質である食糧というものは、安価で提供されて然るべき一種の公共財と考えることもできるかと思います。
公共財のような性質を持つ食糧ではありますが、現代の市場原理が支配する経済においては公共財のような性質は消え失せて、オートメーション化された食糧の供給システムの中で、毎日有り余るほどの食料が作られ、また廃棄され、金銭で売買される消費財としての性質しか持たなくなりつつあります。市場原理が限界まで浸透して格差がどんどん開いていく現代社会においては、大飢饉などで食料が市場から枯渇したわけではなく、決して食べるものがないわけではないにも関わらず、子ども食堂やフードバンクなどの支援を受けることで、ようやく食事にありつくことが出来るような人が増えつつあります。決して食に関する産業を批判しているわけではありません。このような構造は食に関する産業だけの問題ではなく、現代社会が持つ構造的な問題です。
著者の視点は、行き過ぎた近代化によって、社会から孤立し、食事という最低限のサービスにすらありつくことが出来ない人々が増加する社会をいかに支えるかになるかと思います。「縁食」というゆるい柔らかな概念の基に、子ども食堂や無料食堂などのサービスを用いたり、食を基に「縁」を紡ぎだす活動を通じてどのようにして支援していくのかということになるかと思います。
このブログは「近代化とアトミズム」を一つの主題しています。近代化が持つ合理性という力が、人と人との関係性を全て数字という空疎なものに変換してしまい、やがて人々は寄る辺を無くしたアトム(原子)のように社会を漂う、という過去の思想家たちの不吉な予言が体現されつつある現在の日本社会において、本書が指し示す方向性は非常に共感できるものがありました。
「食」という人間にとって最も基本的な行為からのレンズを通して、現代社会を見つめる柔らかい文体の中に、著者の非常に深い洞察を感じれらます。