蟻の社会科学

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内発的動機と形式陶冶(学習転移)

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 僕は教育者でも何でもない素人です。しかし、教育についてよく考えることがあります。人を教育したいというわけではなく「6334の16年も高い学費を払って勉強したのに身についているものがなぜこんなに少ないのか?」という点に強い疑問を持ち、以来教育とは何かを考えています。まあ、何も身についていないのは、何も勉強していない自分のせいなのではありますが(笑)
 しかし、「教育とは何か?」というとてつもなく大きな問題を簡単に考えることは出来ません。上図を見ると教育学も多岐の分野に渡っていて、一体教育とは何なのか、その輪郭がぼやけてしまって、よくわからない面もあると思います。その輪郭がぼやけた構造の中から、教育というものに立ちはだかっている二つの大きな論点を今回は切り出したいと思います。一つ目は内発的動機に関して。二つ目は形式陶冶(学習転移)と実質陶冶についてです。恐らくこの二点が教育を考える際の根源的論点となってくるのではないかと考えています。

 1.内発的動機と知的好奇心
 古代ギリシャの哲学者プラトン「無理に強いられた学習など、何一つ魂に残りはしない。」という言葉を残しました。正にこの言葉こそが教育が直面する最大の問題を的確に表していると思います。いかに学生のやる気と興味を引き出し、強制ではなく能動的に主体的に学習へ向かわせるか、内発的動機と知的好奇心をいかに育むか、これこそが教育という概念が人類に誕生して以来の最大の問題なのではないでしょうか。
 言うのは簡単ですが、実際この問題を解決することは簡単ではありませんし、全ての学生を主体的に学習に向かわせる方法というのは、永遠に解決しない問題なのかもしれません。生徒が勉強にそれほど興味を持てないというのもよく理解できます。勉強するよりスマホやゲームや漫画を見ている方が楽しいでしょうし、勉強がわからなかったり、テストで悪い点を取ればやる気も興味も減るでしょう。先生に「やれ」と言われれば反発したくなる気持ち(心理学用語でリアクタンスという)が芽生えることもよく理解できます。
 また、問題をさらに複雑にしているのが「勉強に興味がなくても、暗記と忘却の繰り返しで、場合によっては一流大学を卒業することも可能である。」という点ではないかと考えています。教育心理学者の藤沢伸介はこの暗記と忘却の繰り返しの勉強を「ごまかし勉強」と命名しましたが、このごまかし勉強でも一定の成果を出すことが出来るという点が、教育に存在する問題の所在を曖昧なものにしてしまっているのではないでしょうか。(この「ごまかし勉強」についてはこちらの記事で少し詳細に記述しています。)
 平成29年改訂の学習指導要領では「主体的な学び」「対話的な学び」「深い学び」という言葉で、生徒の学習に取り組む主体性の重視を打ち出しました。この「主体的な学び」という人類の教育史に数千年にわたり立ちはだかる大きな壁をどのようにして乗り越えるか、これまでも、これからも永遠に立ちはだかっていく問題になると思います。

 2.形式陶冶(学習転移)と実質陶冶
 もう一つの教育に関する根源的なテーマが形式陶冶と実質陶冶の問題になるかと思います。突き詰めれば、教育とは何かを考えたとき、この問題にたどり着くのではないでしょうか。
 簡単に形式陶冶と実質陶冶について説明すると、

形式陶冶:どのような勉強でも、たくさん勉強すれば勉強した分だけ「思考力」や「学習能力」という実体のない抽象的で「汎用的な思考力」が養われて、勉強した分野以外でもその能力を発揮できるという考え方。(学習転移とも言います。)
実質陶冶:人間の知識は、勉強や経験した分野固有のものである。(これを知識の領域固有性と言います。)その分野を超えて「汎用的な思考力」が身につくことはないという考え方。

 形式陶冶が存在するか、それとも存在しないか、この問題は簡単に結論を出すことは出来ませんし、白か黒かという問題ではありません。しかし、これまでの学習に関しての様々な研究から「形式陶冶(学習転移)に関してはそれほど大きな期待は出来ない」という結論が出されているのではないかと個人的には考えています。
 これは教育に対してかなり深刻な問いを投げかけることになります。確かに「学校で学んだことなんて社会じゃ役に立たない。」など言われることもありますが、それに対して「学校で学んだ知識は直接的に役に立たなくても、思考力を育むのが学校だ。」という形式陶冶寄りの擁護で、我々は教育というものを正当化してきました。しかし、形式陶冶にそれほど大きな期待を持てないということは、言い換えると私たちが長い時間と高い学費をかけて学校で学んでいること(学んできたこと)は学校のテストでいい点数を取るためにしか役に立たずに、実際には大半は意味がない、という深刻な問題にすら発展しかねません。

 以上二点が、私が考える教育の根源的論点です。前者に関してはこれまでもこれからも解決はしない問題であり、絶え間ない改善を目指す問題です。後者に関してはかなり深刻な問題でありますが、見て見ぬふりをすることもできない問題です。
 教育というのはテストで高得点を取る方法を教えることではないと思います。しかし現状では教育とはテストで高得点を取ることが目的となっている面も少なからずあると思います。それも確かに重要なのかもしれませんが、上記のような教育の最も根源にある問題を、社会的な問題として俎上に載せて議論していくことも重要ではないかと考えます。

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