考えられていないことはほとんど存在しない
僕はよく哲学関係の本を読む。(内容はよく理解出来ていない。)数年前に哲学の本を読み始めたときは、学び始めなので体系的に哲学思想史の全体像を把握できておらず、断片的に本を読んでいた。知識と知識のネットワークが断片的で浅いので、本を読み何か色々と考えを巡らせたときには「こ、この概念は恐らく俺が世界で初めて考えたのではないだろうか・・・!?」などというあり得ぬ妄想に取りつかれたこともあった。もちろんそんなことはあるはずもなく、さらに哲学の本を読み進めていくと、当然のように先人が2000年以上前にその概念を考えて深く研究していたことを知るのであった。
そんなこんなで哲学、歴史、社会学、経済学、政治学、認知科学etc・・・色々な本を読むうちにようやく気付いた。約5000年前にメソポタミアで楔形文字を粘土板に刻んだ時から今日までに人類が蓄積してきた知識の体系がいかに巨大であるかを。その余りの大きさ、深さ、精緻さには好奇心を飛び越えて、宇宙の果てを意識するような絶望すら感じてしまう。もはや考えられていないことはほとんど無いのかもしれない。まして僕が思いつく程度のことは先人が既に考え尽くしていることは確実だ。
僕は無知だ。しかし、今よりさらに無知だったときには逆に無知であることに気付かなった。知識がつけばつくほど新たな知識との接点が増えて無知であることに気付くことが出来るのかもしれない。人類が蓄積してきた知の体系の前では謙虚な気持ちを忘れないようにしたい。
しかし、どんなに頑張っても一人の人間が知ることが出来ること、考えられることには限界がある。人間に限界がある以上、限界の中でこそ輝く自分らしさも忘れてはいけないのだろう。知の体系という漆黒の宇宙に飲み込まれて自分とは何かを見失ってしまわないように。
考えられていないことはほとんどないとしても、僕らが新しい思考を生み出すことは十分可能だ。新たな思考というのは既存の知識と知識の組み合わせだ。知識は出尽くしていたとしても(それもあり得ないことだが)新しい組み合わせはまだまだ出尽くしていないし、出尽くすこともないだろう。