上記の「最低賃金の撤廃」という政策に一定の理解は出来る。労働者に分配される総賃金のパイ自体は今後大きくならないのだから、最低賃金という制約があれば当然パイのおこぼれに与れない人が出てくる。そのおこぼれに与れない人達に生活保護を与えるよりかは、最低賃金以下でも労働により社会に参加してもらって社会活力を上昇させることにより、経済社会の活性化を図ろうというのは理解できる。最低賃金を無くせば労働者に支給される総賃金のパイのおこぼれに与れる人も増えるかもしれない。しかし、この制度の欠陥を突き、経営者と労働者が結託して政府から金を騙し取ろうという輩が出てくるのは必然過ぎる話であり・・・。
だが俺が嫌うのは、上記の政策のそのような制度的欠陥ではない。上記の政策は設計主義者が陥りやすい社会の中間共同体を無視した「国家と個人」という二極化した社会像だ。社会とは「国家と個人」という二極化、二元論ではない。社会には国家と個人の中間に家族があり、地域社会があり、会社があり・・・様々な共同体が存在する。人とはその社会の共同体の中でしか存在し得ない。人は単体では存在する術を持ち得ない。
上記の政策は、その社会の中間共同体を完全に無視した「国家と個人」の古臭い社会像だ。国家が中間共同体の役割を無視し、直接個人に賃金を保障する社会なんて単なる共産主義社会ではないか。まだ、糞のような民主党の「子供手当」の方が空理空論のお花畑理論ではあるが、社会の中間共同体である「家族」に直接金をばらまく方が、いくらか納得できる。
社会を「シムシティ」や「A列車で行こう」のようなゲーム感覚で考える人間こそ、俺が最も信頼できない政策であり、政党だ。