蟻の社会科学

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「努力は重要だ!」から「努力は報われる!」への移り変わり


「努力は報われるか?」


 単純な議題なのだが、実は非常に難しい哲学的問題が含まれていると思う。「努力は報われる!」という考え方は現代社会においては一種の念仏であり、題目であり、祈りであり・・・要するに「南無阿弥陀仏!」「神を信じるものは救われる!」というような魔法の言葉なのかもしれない。現代人は「努力は報われる!」という念仏を心のどこかで信じなければ生きることすら馬鹿馬鹿しくなってしまうかもしれない。
 「努力は重要だ!」という言葉が生まれたのはいつなのかは全く見当も付かない。ひょっとしたら100000年前の人類の中にその考えが存在していたのかも知れないし、古代ギリシャの時代にその言葉はあったかもしれない。縄文時代古墳時代室町時代にも「努力は重要だ!」という概念は存在していたかもしれない。恐らく人類が生まれたときから「努力は重要だ!」という概念は存在していたのだろうと思う。「努力は重要だ!」という概念が存在していなければ人類はこれほどの文明を築くことは無かったと思う。
 「努力は重要だ!」という概念は人類が生まれたときから存在していたと思うが、「努力は報われる!」という概念に変化したのはそんなに遠い昔の話ではないと思う。恐らく近代の黎明期にジョン・ロックが「富は労働によって増やすことが出来る。そしてその富は自然権に基づく私有財産なのである。」と明確に定義した時から「努力は重要である!」から「努力は報われる!」という考え方へ替わっていったのだと思う。さらに「人間は平等であり、権利がある。」という考え方が「努力は報われる!」という思想を後押ししたのだと思う。
 ぶっちゃけて言うと「人間は皆平等なんだよ。さらに労働によって人間は富を増やすことが出来るんだよ。即ち、努力次第で誰でも人は豊かになれるんだよ。努力は報われるんだよ!」という努力主義が社会の主流になっていったんだと思う。(近代以前の絶対に乗り越えることが出来ない「階級の壁」が存在する階級社会では「努力は重要だ!」という考えは存在していたとしても「努力は報われる!」という考えは主流ではなかったと思う。)
 「人は自由であり、平等であり、努力は報われる!」という考え方こそが近代社会の発展の原動力の一つであったことは間違いないと思う。成長する近代社会の中では富の増加と自分の努力を一体視することが出来たと思うし「努力は報われる」という努力主義も確かに正しい考え方だった。
 しかし、どんなに努力しても富を増加することが難しく、経済成長しない現代においては「努力は報われる!」という考え方は時代遅れになっていくかもしれない。「努力は報われる!」という考え方から「努力は重要だ!」という考え方に再び回帰することが重要なのかもしれない。