これからの新しい社会のシステムと考え方(1)コモディティとコミュニティのクラスター社会時代へ
えー、このブログは構造主義的アプローチで日本社会の構造自体が生み出す問題点とその構造的な問題点が生み出す社会心理を分析して、それを踏まえて新しい社会システムを考える私の独り言を書くテキトーな社会科学系のブログです。
現在も日本社会の問題点を私なりの考察でちょこちょこと書いていますが、それと平行して既存の社会に置き換わるこれからの新しい社会システムについて私の考えをちょこちょこと書いていきたいと思います。今回の原発事故による放射能汚染がどれだけ国土を侵すかによってその実現性については全く不透明ですが、ともかく始めに基本的概要から。
「国家安全保障」を考える時に重要なのが「食料」「エネルギー」「国防」この3点が基礎となるらしいです。日本は食料の自給率はカロリーベースで40%、エネルギーの自給率が4%ぐらいらしいです。(国防に関しては数値化は難しいので横に置いておきます。)「食料」に関しては今回の原発事故で残念ながら食料の自給率はさらに下がることは間違いないでしょう・・・。エネルギー政策に関して今回の原発事故から考えてみます。「関東圏一極集中+発電システムの麻痺+放射能問題」のワンセットが及ぼす社会的、経済的要因の深刻さを考えると、エネルギーの自給率の低さの問題もさることながら「関東圏一極集中という国土構造と特定の発電所や特定の発電システムへの依存(≒原子力リスクの棚上げ)」という構造そのものに大きな問題点があったと言わざるを得ないでしょう。
では「国家安全保障」ではなく「個人の安全保障」というものを考えてみます。個人の安全保障を考える場合「生活保護」や「失業保険」や「年金」や「雇用の確保」などの「国家や企業による金銭的な社会保障の充実」に目が行きがちですが個人安全保障も国家安全保障と似ていて、突き詰めて考えると「食料」「エネルギー」国防に代わって「住居」。この3点セットの物理的な確保が個人安全保障ではないかと考えています。
現在のグローバル経済に垂直統合された社会の中では国家安全保障だけではなく個人安全保障もグローバル経済の強い影響下にあります。リーマンショックなどのグローバル経済の変調によって「派遣切りされて住むところを失い、路上に放り出されて飯も食えなくなった。(≒派遣村の炊き出しによる食料の確保)」「給料が減ってローンが払えなくなって家を手放して借金だけが残った。」「原油が高騰して車に乗れなくなった。」などなど、グローバル経済は国家安全保障を突き抜けて、個人安全保障である「食料」「住居」「エネルギー」をダイレクトに侵食しています。
「食料」「住居」「エネルギー」という基礎的な個人安全保障は「国際競争」≒「海外の経済成長」を経て、金銭に変換され、その金銭が食料、エネルギーに変換され、日本国内に輸入され、個人安全保障に還元される社会となっています。すなわち、個人安全保障は得体の知れない海外の経済成長と食料とエネルギーの海外からの輸入というものに多くの部分を委ねるという、個人の手に負えない社会になってしまいました。これは今に始まったことではなく戦前、戦後からずっと同じ構造ではありますし、石油ショックのときもそうでした。しかし、近年になってダイレクトにそして継続的に個人安全保障を脅かすようになりつつあるのではないだろうか。話は変わりますが、江戸時代の飢饉のときに商人が懐に小判を抱えて道端で餓死していたという逸話を聞いたことがあります(嘘か本当か知りませんが)。また、戦中戦後は都市の人達が着物を持って田舎に行きサツマイモと交換していたとも聞きます。そこまで極端ではないにしても、何かそれに似たような社会に形を変えて戻りつつあるのではないかと思っています。今後、新興国が成長した場合、食料とエネルギーについてどうなるのかは様々な意見はありますが、よくわかりません。
私が考えるのは、個人安全保障である「食料」「住居」「エネルギー」をグローバル経済に依存せずに出来るだけ個人レベルとその周縁の手に取り戻そうという考え方です。食料とエネルギーの可能な限りの自給、そして住居。これらをグローバル経済の影響からなるべく切り離す社会システムを考えます。しかし、決して原始人に戻って自給自足という発想ではなくヤマギシ会やアーミッシュのような生活ではなく、現在のグローバル経済を否定するわけではなく、日本国内でグローバル経済とローカル経済が並存するシステムを考えていきたいと思います。(食料の自給についてはリンの輸入という問題があるようですがとりあえず棚上げします。)
食料とエネルギーの可能な限りの自給という私の考え方は「エコロジー」や「ロハス」などの清く正しく美しい環境保護の思想を原理としているわけではありません。私は「エコ」と言う言葉が嫌いです。「原子力はCO2を出さない地球を守るクリーンエネルギー」「オール電化でエコロジー」などという訳のわからないプロパガンダの正当化に使われかねないコンセプトなので「エコ」は嫌いです。「スローライフ」などのんびり暮らそうという思想には半分当てはまっていると思います。
国家安全保障と個人安全保障のリスク分散と、グローバリズムの嵐から最低限の個人安全保障を維持できる社会。個人の自然権と日本国憲法の第25条1項の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」について、生活保護やベーシックインカムなどの政府による金銭的な保障や、企業や市場の経済的ダイナミズムにだけ答えを求めるのではなく、食料とエネルギーの自給を目指しながら個人安全保障を確立出来る社会。さらにその食料とエネルギーの自給+αを目指すライフスタイルの中で人生の何かを見つけられる社会。自分自身よくわかりませんが、コンセプトはこんなところかと思います。
今後目指すべき社会とその社会を基礎付ける考え方は2011年1月12日の記事「メキシコの猟師と旅行者」と2011年2月1日の記事「フリーター、家を買う」でざっくりと書きました。日本社会、というか先進国は今後成長を望めないのであれば「原点回帰」を目指さざるを得ないと思っています。
成長を望めない今後の日本社会の中でグローバルとローカル、ファストライフとスローライフが並存する社会システムを考える上で参考になるコンセプトを今後、考察していきます。