蟻の社会科学

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【90冊目】大学なんか行っても意味はない?――教育反対の経済学 ブライアン・カプラン

 恐らく、かなり多くの人がこう思っているのではないか。思っていてもなかなか触れられないデリケートなこの問題に、真正面からド直球で挑戦したのが本書である。「大学への進学は学歴の獲得が目的であって、学んだことなど本当はどうでもいい。というか勉強なんてしたところで何の意味もない。」と多くの人が思っていても口に出せないことを、多角的な視点からデータを用いて論証している稀有な本である。

 本書が主張していることを私なりにまとめると、以下の点である。

1 学歴を得るために高い金を払って、さほど役に立たない勉強をしている。なぜならこの社会においては(中身はともかく)学歴がその人に貼られた品質保証書だからである。
2 アメリカ人の多くは四則演算以上のことはわからない。大学を出た人間でさえ、推論のテストで科学的方法論らしきものを用いて回答できた人はほぼ皆無である。
3 学校で学んだことは学校のテストでいい点を取ることにしか役に立たない。勉強することによって知能そのものが上がるという「学習転移」の理論は芳しい成果を上げていない。
4 それなのに教育者は学校で学んだことが社会で役に立つと言ってはばからない。しまいには「教育は魂の涵養だ。」などと言い出す。
5 学校で歴史や文学や外国語などのリベラルアーツを学ぶより、職業訓練を早くからやったほうが本人にとっても社会にとってもいいのではないか?
 
 端的にまとめるとこんなところだろうか。なんとまあ、ド直球な物言いだろうか・・・(笑)しかし、著者が言っていることは、一つの側面から考えた場合は無視することができない事実を多く含んでいる。 
 このような「教育の有効性」について考えるときに問題になってくるのは、「範囲をどこまで絞るか?」ということになってくる。大学は最高学府として様々な研究を行い、科学技術をはじめ、様々な成果を社会に還元しているのは確かな事実であり、大学が無意味だとはとても言うことは出来ない。この事実を背景とした「学問無謬説」「教育無謬説」「教育は神聖にして侵すべからず」という考え方が教育論の一方の軸となっている。しかし、著者が主張している上述の「大学無意味論」も一つの事実であることは間違いない。結局、「教育の有効性」という問題は、白か黒かの二元論に陥って答えが永遠に出ない論争になっている、というのが現状ではないだろうか。
 これまでは社会の安定や経済の成長というヴェールに覆い隠されて、この問題は必ずしも答えを出さなくてもよかったのかもしれない。「意味はなくてもとりあえず大学へ行っておけばいい」と問題を棚上げにしてこれたのかもしれない。しかし、これからの時代はそうはいかなくなるだろう。経済の成長が止まり、大学へ行っても「大学進学という多額の投資」を回収できるかわからない時代に入ってきている。そんな時代の中では教育の有効性という問題に真正面から向かっていかなければいけなくなるのではないだろうか。白か黒かの二元論を永遠に繰り返すのではなく、灰色の範囲にフォーカスし、教育の有効性を考えていくために本書はよい橋頭保となるのではないか。

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【89冊目】ブルシット・ジョブ~クソどうでもいい仕事の理論~デヴィッド・グレーバー

 2020/11/8現在 Amazonの経済思想カテゴリで1位となっているブルシットジョブ(クソどうでもいい仕事)というとても挑発的なタイトルの書評を書いてみたい。
 まず、ブルシット・ジョブとは、「本人でさえ正当化できないくらい完全に無意味・不必要で有害でもある有償の雇用の形態であるが、本人はそうではないと取り繕わなければならないように感じている仕事」と定義している。具体的には

1 フランキー(取り巻き)の仕事 ・・・太鼓持ちのような仕事
2 グーン(脅し屋)の仕事・・・押し売りのような営業
3 ダクト・テーパー(尻ぬぐい)の仕事・・・システムのミスなどを処理する仕事
4 ボックス・ティッカー(書類穴埋め人)の仕事・・・書いて字のごとく
5 タスクマスター(ブルシット・ジョブ量産人)の仕事・・・仕事を割り振りする中間管理職

と定義している。

 僕はどのような仕事がブルシットジョブで、どのような仕事がブルシットジョブではないという定義はできないと思うし、感情的にはしたくもない。(本書でも著者のグレーバーは特定の職業をブルシットジョブとは言っていない。)しかし、このブルシットジョブという概念が現代社会において決して無視できないものを含んでいることも確かだと思う。
 資本主義社会は「永遠の経済成長」を前提としているので、どのような形であれ何かしら拡大し続けなければ社会を維持することができない。そのために資本主義が始まって以降、様々な製品やサービスが生まれてきた。様々な製品やサービスが生まれる過程において、「それは本当に必要なのだろうか」という仕事が生まれていることもまた事実なのではないか。特に近年においては経済の成長率も低下しているので、経済を維持するために金融市場に莫大な金を流し込み、金融市場を経由して実体経済に無理やり金を流し込む。そして経済を維持するために、必要かどうかは関係なく、新しい製品、新しいサービスを開発し続け、人々が欲しがるように宣伝し続ける。そんなサイクルの中で「ブルシットジョブ」という概念が生まれるのは必然なのかもしれない。
 このコロナ禍で経済の虚飾が剝ぎ取られ、上記のような現代社会の本質の一部を垣間見せられたような気がする。本書が人気を博しているのはこのような背景があるのだろうか。

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文章が書けない・・・やる気が出ない・・・

 久しぶりに長文を書こうとしてパソコンに向かっていますが、うまくまとめられなくなっている。巨大な抽象概念を具体化していくプロセスで躓いてしまう。抽象概念をうまくまとめられない。最近書いてないからかな。張りのない日々を送っているので、脳がぼんやりしている感じがする。文章を書くリハビリのために書評から書き始めようかな。きっと巨大なものを構築しようとするから行き詰るんだろうな。小さなエッセイとか小論とかを書くところからまた始めよう。

【88冊目】構造と力~記号論を超えて~ 浅田彰

構造と力―記号論を超えて

構造と力―記号論を超えて

  • 作者:浅田 彰
  • 発売日: 1983/09/10
  • メディア: 単行本

 コロナ禍以降の社会を見ていると、経済の急激な縮小、それと反比例する金融市場の膨張、家賃を払えなくなった人の急増、リモートワークの急拡大など、限界まで合理化された社会の内側に隠されていた本質的な不安定さというものが露わになり、さらにその振れ幅を大きくしているのではないかと思う。そんな社会を見ていると、ポスト構造主義がこのような社会の本質的な不安定さを見抜いていたのだなと思い、改めてポスト構造主義の本を読み返している。1980年代に現代思想マイルストーンとして一世を風靡した本書を改めて読み返すと、半分くらいは何が書いてあるかよくわからない(笑)。わかる部分だけかいつまんで書評を書いてみる。


近代社会のダイナミズムは脱コード化の必然的帰結である。脱コード化の結果、コスモスは沈黙する無限空間へと還元され、ノモスは解体して人々は共同体の外に放り出される。コスモスーノモス構造の解体は、そのままでは文字通りのアノミーに、つまりカオスの全面展開に、つながりかねない。今や新たな解決が求められることになる。ここで近代社会がとった解決は、きわめて陳腐なものと言ってもいいかもしれない。象徴秩序の紐帯が緩み切った所で、excesを抱えてじっとしていることに耐えられなくなたっとき、人々はわれがちに一方向へと走り出す。何か絶対的な到達点があるわけではない。走ることそのものが問題なのである。一丸となって走っている限り、矛盾は先へ先へと繰り延べられ、かりそめの相対的安定感を得ることができる。しかし、足を止めたが最後、背後から迫って来るカオスがすべてを吞み込むだろう。それを先へ先へと延期するためにこそ、絶えざる前進が必要になるのである。こうして、近代社会は膨大な熱い前進運動として実現されることになる。

P100より引用

 
 上記の部分が、個人的には本書の核心に近い部分だと考え抜粋した。この部分を土台として私なりのポストモダン社会観を下記にて記述する。
 マックスヴェーバーが「呪術からの解放」と称し、テンニースが「ゲマインシャフト(≒血縁地縁共同体)からゲゼルシャフト(≒会社縁共同体)への変遷」と表現したように、近代社会の特徴は旧秩序の脱コード化(≒解体)が本質である。ゲマインシャフトが解体されて、裸のアトムとなった個人はゲゼルシャフトに吸収された。ゲゼルシャフトの一員として、ブランドや情緒的価値という「記号」を消費する消費社会の中で、上述の「近代社会の膨大な熱い前進運動」の中に組み込まれる。その前進運動に何か絶対的な到達点があるわけでもないが、一丸となって走っている限り、矛盾は先へ先へと繰り延べられ、かりそめの相対的安定感を得ることができる。しかし、今回のコロナ問題のように一度止まってしまうと、追いかけ続けてきたカオスにあっという間に呑み込まれてしまう。
 脱コード化され、全ての縁から切り離された裸のアトムが大量に存在する現代社会で、裸のアトムはこの漆黒のカオスの中で一体何を寄る辺にしていけばいいのだろうか。また今回漆黒のカオスから逃げられた人もいつかは追い付かれるかもしれない。20世紀後半に流行したポストモダン思想が指し示しているのは今まさにこの時代とこれからの時代なのだろうと本書を読んで思った。

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