蟻の社会科学

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【72冊目】社会心理学講義<閉ざされた社会>と<開かれた社会> 小坂井敏晶

社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉 (筑摩選書)

社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉 (筑摩選書)

 以前からこの本が欲しいなと思いつつ、ずっとamazonのカートに入っていたが、たまたま友人がこの本を持っていたので譲ってもらった。友人に感謝。表題の通り、社会心理学についての本ではあるが、少々難解であり、私に書評を書く力があるかどうか疑問ではあるが、ともかく書評を書いてみる。

 本書の論点を大きく二つに分類する。まず一つ目の論点は、現在の社会心理学への批判的視点を含んだ科学的な方法論についての言及。二つ目の論点は、社会心理学の具体的考察である。科学的な方法論に対する著者が持つ見解をまず明らかにしてから、その見解で全体的な総論を包み込み、二つ目の論点の社会心理学の各論へ展開していく流れとなっている。この書評もその流れに沿って、一つ目の論点についての要約、二つ目の論点の要約、最後に私の意見について記述したいと思う。

 まずは一つ目の論点について要約。
 現在の社会心理学実験心理学として細分化され、技術的な方向へ走り過ぎている。本質を忘れて些末な部分にこだわり過ぎている。マルクスヴェーバー、デュルケムのような長大な射程を持つ理論は放棄されて、細切れな小理論ばかりが提唱されている。科学とは実証である前に、まず理論的な考察が大事である。実証も重要であることは言うまでもないが、まずその前に哲学的思索、自由な想像力が果たす重要な役割を軽視してはいけない。
 学問で最も重要なのは新しい知識の蓄積ではなく、当たり前だと普段信じて疑わない常識の見直しである。社会には究極的真理や普遍的価値というものは存在しない。真理と思われていたことも時代によって変わっていく。常識にとらわれることなく、批判的に考え続けることが重要である。
  
 二つ目の論点は社会心理学の各論についての考察となっていくが、ポイントを下記の点に絞りたいと思う。ここでは要約だけではなく私の考えも交えながら記述したいと思う。

1、社会心理学とは何か。人間と社会の関係について
2、内的帰属と外的帰属
3、無意識下の意思決定と意識上の意思決定
4、認知的不協和理論の人間像
5、世界の変化と真理について

1、社会心理学とは何か。人間と社会の関係について
 社会心理学は自立する学問ではなく、社会学と心理学の両方に依存しており、それら二つの学問を結ぶ蝶番の役割を果たす。我々が提案する集団研究の目的は、個人力学と集団力学の間の恒常的な相互効果を強調し、集団が個人を形成・社会化し、行動及び思考形式を刷り込むと同時に、集団も個人によって生み出される事実を明らかにすることである。個人は単に集団に服従する集団ではない。集団環境によって人間の社会条件や表彰は規定される。しかし、同時にこれら社会条件を個人が変化させる(そして時には拒絶する)場合もある。
 人間と社会の関係を巡ってギリシア時代から二つのアプローチがしのぎを削ってきた。個人の資質から社会制度が生まれる方向(部分→全体)。社会条件が個人の行動を決定する方向(全体→部分)。しかし全体と部分は不可分であり、個人と集団の相互作用、循環作用を考える必要がある。現在の社会心理学は個人の心理に焦点を当てすぎているが、全体と部分を同時に考えないとシステムとしての相互作用は見えてこない。

2、内的帰属と外的帰属
 人間は自らの意思で行動していると普通考えられているが、外的環境によって、容易に、無意識に、その意思が左右されることが心理学の様々な実験により明らかにされている。物事の原因を人間の意思に求めることを内的帰属といい、外部環境に求めることを外的帰属というが、人は内的帰属を重視し、外的帰属を軽視する傾向がある。(根本的帰属誤謬)
 例えば、ナチスホロコーストがなぜ実行されたのか。あれほどの大量殺人の原因を、現場で作業に従事した実行者の意思だけに求めることが果たして妥当なのか。ユダヤ人をガス室に送り込んだ現場のドイツ人たちは全員血も涙もない鬼畜のような性格だったのだろうか。戦後の調査では、ホロコーストに従事した人たちは、人間的に異常な性格ということはなく、ごくごく普通の市民がほとんどだったという。ホロコーストの一連の「作業」が全て「分業制」と「流れ作業」となっていたことで、一人一人の作業が工場の作業のようになり、ホロコーストに従事した人たちの罪悪感が薄れたことに原因の一つを求められる。
 このように人間の思考を考えるときには、人間の意思力だけを考えるのではなく、外的要因についてもよく考えなければいけない。

3、無意識下の意思決定と、意識上の意思決定
 人間の思考は社会、歴史条件によって深く規定される。各社会時代に流布する世界観を捨象して心理プロセスはわからない。私たちは「意識」を持っているので、自らの思考は全て自らのアンダーコントロールにあるように思ってしまう。しかし、例えば私たちが日本語を喋るのは、果たして自らの意思での選択と言えるだろうか。これは視点によって変わる。自己の視点から見れば自らの意思によって日本語を喋っていると考えることもできるが、別の視点から見れば、日本に生まれたことにより半強制的に日本語を喋らされているとも考えることが出来る。どこからどこまでが自らの意思(内的帰属)で、どこからどこまでが外的要因(外的帰属)か線引きすることは不可能である。しかし、少なくとも、私たちが全て自らの意識上で何もかも決定している、と考えることは出来ないのではないか。
 認知科学の実験などでも、人間の無意識下の様々な決定が明らかになっているが、ルネサンスからの、理性や人格や意思が行動を決定するという西洋近代が生み出した個人主義的人間像をもはや盲信することは出来ない。

4、認知的不協和理論の人間像
 自らが何かしらの信念を持っている時に、外界からの何かしらの影響によりその信念と違う行動を取ってしまった場合、人はその矛盾を正当化するために自らの考えを変えて、その矛盾の解消と心の安定を図る。これは認知的不協和と呼ばれている。意思が行動を決めると我々は感じるが、実は因果関係が逆である。外界の力により、行動が引き起こされ、その後に発露した行動に合致する意思が形成される。つまり人間は合理的動物ではなく合理化する動物である。心的過程は意識に上がらない。行動や判断を実際に律する原因と、判断や行動に対して当人が想起する理由との間には大きな溝がある。人間は自由な存在ではない。自由であると錯覚するだけ。自ら主体的に選択したと思っても、我々は知らず知らずのうちに外界からの情報に影響を受けて判断や行動している。
 自律感覚の強弱に関わらず、外界の力によって行動が影響される度合いは誰でもあまり変わらない。しかし、自分を自由だと信じる人、自信が強い人ほど、外界の強制力に無自覚であり、行動を自分自身で決定したと錯覚するという重要な二つの結論がある。

5、世界の変化と真理について
 行為や判断の理由説明は所属社会に流布する世界観の投影を意味する。我々は個人で判断するのではない。集団的に生み出される枠組みやカテゴリーを通して世界の出来事を理解する。世界には普遍的な真理はない。我々の目に映る真理は、人間の相互作用が生み出す世界観である。真理だから同意するのではない。同意に至るから真理に映るのである。
 世界は不断に変化し、生成されている。固定された定点では世界をとらえることは出来ない。慣れ親しんだ思考枠を脱するためには、その対象だけを見ていてはいけない。対象が含まれる全体像を考えなくてはいけない。

 
 最後に私の意見を書きたいと思う。本書を読んでまず感じたのが、ポスト構造主義や仏教との通底である。人は変化し続けるこの世界の一部であり、その影響から逃れることはできずに、また無意識下にある思考も認識することは出来ないという全体論的な世界観は、仏教と通ずるものがあり、人間と世界の関係を的確に表している。まさに著者が冒頭で述べていた哲学的思索を土台とした長大な射程を持つ世界観と言える。
 人が外界の影響から逃れることが出来ないこと。また無意識下にある思考を意識上において認識することが出来ないこと。この二点により、全てを自らの意思によって行動するという西洋的な近代的人間像や、人の自由意思について、近年は批判的な見方も多くなってきているようにも感じる。確かに人間の思考の6~7割ぐらい?は自らが制御できない領域で発生しているのかもしれない。
 しかし、私は残りの3~4割は自らの意識上で確かに存在し、ある程度自由に制御することが出来ると考えている。その意識上の3~4割をうまく制御することにより、6~7割の無意識もある程度、大きな方向性を定めるぐらいには制御できるのではないかと考えている。自らの心が、自らの制御下にない部分が大きいという点に関して、人によっては悲観的に考えてしまうかもしれないが、自らが制御できない部分が存在していることを認識することで、出来ることと出来ないことを見極めて、逆に、より3~4割の思考の中で自由を増やすことが出来るのはないかと前向きに考えている。どこからが自由でどこまでが不自由かなどという線引きをすることは不可能ではあるが、自分の心の中に不自由である部分があることを知らずに、自分はの心は全て自分のものであり、自由であり、自由にコントロールできると思い込んでいるからこそ、逆に苦しくなることがあるのではないだろうか。本書は世界と自らの心の関係性を考えるうえで、非常に示唆に富んだ参考になる本だと思う。
 
 あとがきで著者はこう書いている。

(前略)どうせ人文・社会科学を勉強しても世界の問題は解決しません。自分が少しでも納得するために我々は考える。それ以外のことは誰にもできません。社会を少しでも良くしたい、人々の幸せに貢献したいから哲学を学ぶ、社会学や心理学を研究すると宣う人がいます。正気なのかと私は思います。そんな素朴な無知や傲慢あるいは偽善が私には信じられません。(中略)
 しかし文科系の学問なんてどうせ役に立たないと割り切って、自分がやりたいかどうか、それしか出来ないかどうかだけ考えればよいのだと思います。(中略)才能なんて関係ありません。やらずにはいられない。他にやることがない。だからやる。ただそれだけのことです。研究者も同じではありませんか。死ぬ気で頑張れというのではありません。遊びでいい。人生なんて、どうせ暇つぶしです。理由はわからないが、やりたいからやる。それが自分自身に対する誠実さでもあると思います。

 この考えには賛否はあると思うが、忌憚がなく、なんだか突き抜けていて清々しい考えでもある。

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