蟻の社会科学~リベラルアーツとロジカルシンキング~

自由に生きるため、この世界を知ることを目的としたブログです。ビッグヒストリーを縦軸にリベラルアーツを横軸にロジカルシンキングを最適化ツールとして。興味を持った方はガイドラインからどうぞ。

共同体主義!〜安倍首相の靖国参拝について〜

ヤフー知恵袋より一部引用


共同体主義」とはどういう考え方ですか?わかりやすく教えて欲しいです。できれば対である言葉も教えてください。

共同体主義に対するものはリバタリアニズムでしょう。そもそも共同体主義という考え方は、リバタリアニズム批判の中で育ってきたものですから。しかし、自由主義を完全に否定するようなものではありません。ここんとこは理解が難しいだろうと思いますが、これを理解するにはロールズを知らなければならない。無知のヴェールとか。なので詳しい話しは端折る。(といいつつ、それなりに説明してみる)

共同体主義は人間がひとりひとりバラバラに生きてるのではないと考える。個人の判断は、それがどれだけ個人の判断であっても、深い部分では共同体とつながっていて、このつながりを無視して物事を考えることはできないと言う。これはどういうことかというと、、、お年寄りは、カッコわるい服装をしているもんです。しかしそれはセンスが悪いのではない。むしろセンスはいい方なのです。それが証拠に若い頃の写真を見せてもらうといい。仲間の中で一番オシャレで光ってるのが、その人だったりする。そのお年寄りのファッション感覚は、若い頃の流行と結びついて切ってもきれないものとなってしまっている。すなわちアイデンティティをつくりあげてしまっている。違う服装をするのはアイデンティティが崩れてしまうので、出来ない相談なのです。共同体とつながっているというのは、こういう意味です。

キリスト教徒の家や、集落に産まれ育った者は、そのひとのアイデンティティのもっとも深い部分にまでキリスト教的なものが染み込んでいて、その人からキリスト教的なものを奪いさることなどは絶対に出来ない。ですから、キリスト教徒に、反キリスト教的な行為や判断を迫るのは、理不尽なことです。私たちが首狩族の首狩文化を現代においては決して肯定できないというのも、人権や人間の尊厳といった共同体の価値が私たちのアイデンティティを形成しているからです。だから、伝統文化なんだから首狩り行為を肯定しろと言われても、それは無理な相談です。イヌイットの鯨漁とはわけが違う。

一方で、自由主義というのは、基本的に、こういう繋がりを無視します。むしろ、無視することが倫理的であると考えます。宗教とか、文化とか、そういうものを徹底的にそぎおとしていった先に人間の本質的な部分を見いだして、そのレベルで合意できることは何か、などと考える。宗教的に偏った判断はダメだから、宗教的なものを排除した人間像を想定し、そこで考えようとする。アラブ人とイスラエル人が喧嘩をしないで自由に振舞える世の中を作るためには、宗教のことには触れないで行こうと考える。例えば、教育に宗教を持ち込まない方が倫理的だというのもこういう考え方。それで日本では、画一的な服装をさせたりする。いわゆる平等とか公平とか、そういう方向に話しが流れて行く。

しかし共同体主義は、こういう考え方を批判する。アイデンティティとか、共同体との繋がりという事実を無視した人間像を仮構するのは、逆に、人間を抑圧し、苦しめることになると考える。要するに、授業中であっても、時間がきたらお祈りをするイスラム教徒の行為を認めて行かねばならないだろうということです。すくなくとも、何かしらの配慮は必要だろうと。アイデンティティに直結してるんだから、否定してはならないと。これは、ある意味、個人の自由を認めていることになる。(またある意味、イスラムという共同体の価値を優先させているとも言えるだろう。ここんとこの微妙さは誤読しないよう注意が必要)しかし、その肯定の理屈が、自由主義とは異なる。

 
共同体主義者としての俺の靖国参拝についての考え

 安倍首相の靖国参拝が国際的に批判されている。人のアイデンティティの形成に「国」という概念が入り込まないことは有り得ないし、(先の大戦を擁護するわけでは決して無いが)先人の苦労に対しての敬意を忘れてしまうようなことがあれば、それこそ日本のアイデンティティに対する一大事と言っても差し支えないだろう。靖国参拝という形で先人に対する敬意を表すことが妥当かどうかは議論はあるだろうが、先人に対する敬意は絶対に忘れてはいけないと思う。