蟻の社会科学~リベラルアーツとロジカルシンキング~

自由に生きるため、この世界を知ることを目的としたブログです。ビッグヒストリーを縦軸にリベラルアーツを横軸にロジカルシンキングを最適化ツールとして。興味を持った方はガイドラインからどうぞ。

近代の末路〜浮遊する現代人〜

田中角栄

「人口と産業の大都市集中は、繁栄する今日の日本をつくりあげる原動力であった。しかし、この巨大な流れは、同時に、大都会の2間のアパートだけを郷里とする人びとを輩出させ、地方から若者の姿を消し、いなかに年寄りと重労働に苦しむ主婦を取り残す結果となった。このような社会から民族の100年を切りひらくエネルギーは生まれない。かくて私は、工業再配置と交通・情報通信の全国的ネットワークの形成 をテコにして、人とカネとものの流れを巨大都市から地方に逆流させる“地方分散”を推進することにした。 」
と述べています。
 俺は都市から地方へ富を分散すれば魔法のように豊かな社会を実現できるなどとは微塵も思いませんが、田中の考えは非常に学ぶべきものがあると思います。先日書いた記事と以前に書いた記事をもう一度練り直して「近世社会から現代社会への変遷」について考えてみたいと思います。このブログは基本的に同じことを何回も繰り返しています・・・

産業(3部門)別15歳以上就業者数の推移-全国(大正9年〜平成17年)
総務省統計局より画像を引用
近世
 江戸時代には食料の生産(第一次産業)に従事する人の割合は70〜80%だったと言われてる。職業の分化が数千年前に始まったが、産業革命以前の社会は第一次産業を基礎としていたのだ。そんな時代、働くということは即ち「食糧を確保すること」だった。そのような時代に生まれたほとんどの人には職業選択の自由などの概念が存在するわけもなく、絶対に退出不可能な「村という名の共同体」「血縁の掟」「土地の鉄の掟」の中で一生を終えていた。北陸地方の北陸村で生まれた農民の子、呉作さんは北陸地方の北陸村の中で農民として一生を終えることが、生まれた時から決定されていたのだ。
 この時代を生きる人は「農耕」「山の幸」「海の幸」という自然に依存した非常に不安定なものをベースとした「村共同体」の中で生きるほか選択肢がなかった。自然に翻弄される非常に不安定な共同体ではあるのだが、人が生きていくために「村共同体」は社会の中で揺らぐことのない、絶対的な確実な存在だったのだ。
 現代の視点から見るとこのような時代はとても豊かなものとは思えない。職業を選ぶ自由もなければ土地を移動する自由も存在しない時代など、とても幸福な時代とは思えないし戻りたいとも思わないのだが、近世以前の社会には「絶対的な共同体」というものが確かに存在したのだ。他に選択肢がない時代、人には生きるための絶対的な道標が確かに存在したのだ。

近代
 明治維新から始まった「近代化」という潮流は人の労働を徐々に第一次産業から第二次産業第三次産業へと替えていった。農民は工場従業員へと替わり、農村の住民から都市への住民へと替えていった。第一次産業から第二次産業第三次産業への移り変わりは、人の生命を保障するものを変えていった。「村共同体」「山の幸」「海の幸」「農作物」という(とても豊かとは言えないが)確実に存在するものから、「お金」というどこか危うげな浮遊するものへ人は人生を預けるようになっていった。それが「現代人の誕生、サラリーマンの誕生」だ。
 決して豊かではないが確実に存在するもの(実物)に人生を預ける時代から、豊かではあるがどこか危うい存在(お金)に人生を預ける時代、それが20世紀の近代化なのだと思う。日本において「サラリーマン」が生まれたのは大正時代だとされるが、本格的に「サラリーマン」が労働の主役になったのはやはり戦後だと思う。

(出典:経済のプリズム「戦後の日本の人口移動と経済成長」縄田康光)
現代
 戦後の日本社会は近世の「村共同体」を、現代の「企業共同体」へと完全移植することに成功したと思う。年功序列というシステムはサラリーマンに対して絶対的安心感を与え、そしてその安心感は会社への絶対的忠誠心を作り上げた。それは戦後の日本社会の高度経済成長を作る一要因となり、社会の中で再び、絶対的な共同体と生きるための絶対的な道標を作り上げることに成功した。「企業共同体」それが1990年頃までの日本社会での生きるための道標だったと思う。
 現代人は実体のないお金という「浮遊するもの」に人生のすべてを預けている。戦後の工業化、サービス業化する社会は地方から都市へ人を集め「都市で暮らし、お金に人生の全てを委ねる浮遊する人々」を大量に生みだした。前述の田中の言う「大都会の2間のアパートだけを郷里とする人びと」を輩出させた。確かに経済が成長している間は多くの人が生きるための確実な土台を持たなくても、経済成長の恩恵とユーフォリア(幸福感)の中で生きていける。
 しかし、永遠の成長という根源的矛盾を抱える資本主義をベースとする「お金」というものはフワフワと社会を漂う実体のない非常に不安定なものだ。近代化は確かに人々を豊かにしたのは間違いないのだが、同時に人が生きるための確かな土台を失わせてしまったのも事実である。そのフワフワした存在であるお金に人生の全てを委ね、「大都会の2間のアパートだけを郷里とする人びと=生きるための確実な土台を持ち合わせず都市でフワフワと生きる現代人」は経済成長が終わってしまった瞬間に生きるための確実な土台を失ってしまう・・・
これから
 現在騒がれている生活保護問題は必ずしも個人の責任とは言えないと思う。(もちろん、働く意思をまるで持たずに日本国憲法第25条をあたかも聖書かコーランのように持ち出す人が増えているのは極めて大きな問題なのだが。)
 結局、近代化はフワフワと浮遊する現代人を大量に生み出した。経済が成長している間はそのフワフワと生きる現代人全てを包み込むことが出来るのだが、経済の成長が終わってしまった瞬間に生きるための確実な土台を持たないフワフワ現代人は生きていくための手段の全てを失ってしまう。(例えば会社が倒産した瞬間に住宅ローンを払えなくなり行き場を無くしてしまうなど)生活保護の増加は個人の責任ではなく単なる近代の末路なのだ。今回は書ききれないのだが、ちょっと強引に言うと「少子化」も「高齢化」も「非婚化」も「無縁化」も全ては近代社会の末路であり、誰かに責任を問うこと自体が不可能な問題なのだ。僕らが今生きている時代はその近代社会の末路の時代なのであって「政府が悪い」とか「生活保護受給者の努力不足」とか「若者の努力不足」とか、誰かに責任を押し付けること自体が馬鹿げている。
 政治家の不作為や生活保護受給者の努力不足などは決して肯定できることではないし問題点を洗い出していくことは非常に重要だけど、対症療法にこだわるのではなくもっともっと歴史から学び、これからの未来を考えていくことも重要なことだと思う。