蟻の社会科学~リベラルアーツとロジカルシンキング~

自由に生きるため、この世界を知ることを目的としたブログです。ビッグヒストリーを縦軸にリベラルアーツを横軸にロジカルシンキングを最適化ツールとして。興味を持った方はガイドラインからどうぞ。

蟻さん主義の根底 その2

 ふとしたことから社会について考えるようになった俺の独り言を書く適当な社会科学風味ブログ。リーマンショック以来、社会について考え続けたことを自分なりに徒然と書いてみます。
 俗物である俺は以前は社会について考えたことなんてなかった。「もう金しかないなぁ!金持って来い!」「フリーターより正社員の方がいい。中小企業より、大企業の方がいい。なぜならそれが社会通念上当たり前のことだから。」という社会観しか持ち合わせていませんでした。そして、俗物である俺は今でも「金はたくさんあればいい。」とは思っています。お金を否定するのは単なる「ルサンチマン」であり「酸っぱい葡萄」になりかねないので、素直に「金はたくさんあればいい」と思います。ただ問題意識は「金はたくさんあればいいけど、これからの時代、ほとんどの人はどうやっても金をたくさん稼ぐことは難しいぞ・・・」ということであり、では「金を稼げないとしたらどうしたらいいのか?」ということになりますか・・・。
 日本経済が成長すればいいに決まっています。経済が成長して困ることなんて(一つの視点からは)何ひとつありません。ひたすら金のため、経済成長のためにガムシャラに努力することは決して悪いことではないと思います。ただ一つ問題を挙げるとするならば「もう経済成長することは無い。」という一点になるかと思います。戦後の日本社会を包み続けていたユーフォリア(経済成長のヴェール)はもはや消滅しました。ユーフォリアは消滅したのに他に求めるものが何ひとつ存在しない社会こそが問題なのかもしれません。
 俺は経済成長を否定しまくっていますが、資本主義を否定する意思はありません。西洋型社会では資本主義以外に社会を豊かにするシステムが存在するわけが無い。最善ではないとしても西洋型社会では資本主義民主主義社会よりよりよいシステムなど存在するわけが無い。資本主義を批判することは、非現実的な単なる脳内お花畑でしかないわけであり、資本主義民主主義社会は他に代わるものが無い、西洋型社会の最次善のシステムとしか言いようが無い。しかし、最次善のシステムである資本主義もやはりどこかに限界は存在することは確かであり、世界経済の永遠の成長を前提とする資本主義もいずれはシステム疲労を起こしてしまうのではないでしょうか。
 資本主義を否定するわけではありませんが、俺が批判的に考えるのは資本主義の根底にある徹底的な合理主義です。あまりにも合理化され過ぎた社会では、全ての人が最後には「システムの奴隷」となってしまう。心まで合理化された現代人は、合理化された社会システムの中に生まれた新たな階級社会封建社会の虜となってしまって、自分自身というものを見失ってしまうのではないだろうか。
 しかし、階級社会なんて人類に農業が生まれたときから存在していた当たり前の社会です。現代の格差社会階級社会さえも人類が何度も経験してきた当たり前の社会形態です。ただ近代以前の階級社会と、現代の階級社会は同じものではないと思います。現代社会はホッブス、ロックの社会契約論から徹底的に理詰めで構築された社会なので、もはや感情的な理論が入り込む余地が無い、論破不可能な真に無慈悲な階級社会なのだと思います。
 徹底的な合理主義により構築された論破不可能な無慈悲な階級社会の中で生きる社会的弱者は一体どうすればいいのでしょうか。マックス・ヴェーバーが「鉄の檻」と呼び、フーコーが「パノプティコン」と呼んだ、人の意思も個性も全てを飲み込んでいく機械のような合理的社会システムの中で人はどのように「自分」を見出せばいいのでしょうか。
 
 なんてことを考え続けて、とりあえず辿り着いた中間的な結論は非常に凡庸なものになりました。
「自分は自分だ。」
「その自分も自分だけの力で生きているのではなく他人の力によって生かされている。」
 どこか危ない新興宗教の教祖が言いそうな結論に達してしまったw
 西洋的な考えである「私、個人」と東洋的な考えである「因果、縁起」を組み合わせたら上記の凡庸な結論に達しました。「かけがえの無い私を大切にして、それ同じように他人も大事に思いましょう。」という本当に薄っぺらいどうしようもない当たり前の脳内お花畑の結論に辿り着いてしまったw(しかし、鳩山的な「友愛思想」や「コスモポリタニズム」のような理想論には現時点では断固として反対だ!)
 それはともかく、これからもこのブログで独り言を書いていこう思います。