蟻の社会科学

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藤沢数希氏の「10人の村で経済成長と失業を考える」

 藤沢数希さんの記事は面白い。藤沢さんの本は一度も読んだことはありませんが、経済の話は例えが非常にわかりやすいし説得力がある。(一時期、傍から見ると異様と思えるほど原子力を擁護していたその心は理解できませんが。)
 藤沢さんが先日書いていた「10人の村で経済成長と失業を考える」という記事が経済成長についてうまく例えていました。


10人の村の話
最初は貧しい自給自足の農村です。10人がみな朝から晩まで田畑を耕して必死に飢えないように食べ物を作っています。ところがある日、村人のひとりが肥料を発明しました。この肥料を使うと安定してたくさん野菜や果物や穀物を作れることがわかったのです。イノベーションです。おかげで10人でやっていた野良仕事を5人でできるようようになりました。そうすると残りの5人はどうなるかというと、失業してしまうのです。
しかしこの失業した5人は新しい仕事をみつけます。漁業です。おかげでこの村は農産物の他に海産物も手に入れたのです。これが経済成長です。農産物だけだったGDPが農産物と海産物に増加したのです。そのあと、農業でも漁業でもさらにイノベーションが起きて、とうとう農業はふたりで十分で、漁業はひとりで十分まかなえるほど効率がよくなりました。しかし残りの7人は失業してしまったのです。
ところがこの7人は村を豊かにするためにさまざまな新しい仕事を始めます。大工さんになって家を作る人、お医者さんになって村人の健康を守る人、それにこの豊かになった村では歌を歌うという仕事まで生まれました。村人全員で農作業をしていた時代にくらべてはるかに生産性が増加して、飛躍的な経済成長をとげたのです。
 このように技術革新が生まれ、生産性が向上すると経済は成長して行くわけだが、必然的に「一時的な」失業が必ず起こるのである。
 日本や世界の国々は、過去に衰退産業での失業を乗り越えてきたからこそ今の豊かさがあるのだ。高度に発達した現代の我々が住む世界では、ほんの少数の人たちで全員の腹を満たす食料を作ることができる。そして、ありとあらゆる職業が生まれてきたのだ。現在では宇宙飛行士という仕事もあれば、ブログに面白い日記を書いてその広告収入だけで生活している人や、犬の散歩代行で生活している人までいる。そしてさらに世界は進んで行っているのだ。経済成長を止めない国の未来には、想像もつかないようなおどろく仕事がたくさん生まれているに違いないのだ。
 このように考えると、国内の弱い産業を守るために、関税をかけ輸入を制限したり、衰退産業に補助金を出して延命する行為が、いかに馬鹿げたものか分かろう。社会が発展するためには時代に合わなくなった会社が倒産したり、不必要になった産業で働いていた人が失業するのはどうしても避けれられないことで、政府は、そういった衰退産業を補助金や不必要な規制などで延命するよりも、むしろ失業や倒産を積極的に受けとめて、それによって余った労働力が次の成長産業にスムースに移れるような仕組みを作るべきなのだ。
 長期でみれば失業も倒産も社会にとって悪いことではない。ちょっとした成長痛に過ぎないのだ。

 経済成長がいつから始まったか?恐らくそれは人類が農業を始め、職業の分化が始まった紀元前数千年頃なのかもしれません。人類は数千年経った今でも、その延長線上で経済成長を追い求めているのだろうか・・・?藤沢さんのこの記事は経済成長のモデルをうまく表していると思います。
 しかし、あえて疑問を挟んでみよう。そもそもこの記事の「10人の村の住人全員が労働者」という設定が無理があるのではないだろうか?村の10人全員がこれまでも、これからも、ずっと労働者であるならばこの仮定は成り立ちますが、村には当然子供もいて老人もいます。子供が多かった時期もあれば老人が多くなる時期もある。いつの時代も被扶養者が必ず存在します。
 これまでの「老人が1人、労働者が6人、若年層が3人。」という村のモデルは終わりを迎えつつあり、これからは「老人が4人、労働者が4人、若年層が2人。」という村になりつつあるのが現状です。その現状に対してこの「10人の村」というモデルにどのような答えがあるのだろうか?
 藤沢さんがこの「衰退する村」という問題に対してどう思っているのかいつか知りたいと思う。