蟻の社会科学

自由に生きるため、この世界を知ることを目的としたブログです。ビッグヒストリーを縦軸に、リベラルアーツを横軸に、システム思考を最適化ツールとして。興味を持った方はガイドラインからどうぞ。

最近の社会

 ユリウス・カエサルの「人間ならば誰にでも、現実の全てが見えているわけではない。多くの人たちは、見たいと欲する現実しか見ていない。」という言葉は有名ですが、インターネットというものは、正にこの言葉を体現していると思います。ほぼ無限のネットワークの中から自分が見たいものだけ選びだして、見る。それを繰り返すうちに世界の幅が極端に狭くなっていき、そしてそれに気づかなくなる。確証バイアスの奴隷とでも言うべきでしょうか。

 先日、こんなニュースを見かけました。

news.livedoor.com
(前略)公園で休憩するのは普通のことだ。ただ休憩していただけなら、警察のご厄介になることだってない。なら、さぞ普通でないことをしたんだろうと思い込んでいると、公園にいたママ友集団の一人が僕たちに向かっていきなり「私は間違っていませんからね」と言い放った。女性はおじさんを通報した本人で、

「普段見かけない男性が公園のベンチに座って休憩していた。スマホも使っていたから盗撮かもしれないので通報した」

のだという。(後略)

 最近の社会が様々なことに対して不寛容になってきている気がしますが、その背景に確実に「ネット依存社会」というものがあるのだろうと思います。

 哲学者オルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」の一節が思いこされました。 

(前略)すなわち、十九世紀によって組織づけられた世界は、自動的に新しい人間を生み出したが、その際、その新しい人間に、恐るべき欲求とそれら欲求を満足させるためのあらゆる面に関する強力な手段とを与えた。つまり、経済的手段、肉体的手段(衛生状態と平均的健康状態はそれまでのすべての時代に優っている)、市民的手段および技術的手段(技術的手段と言う言葉を、わたしは、過去の平均人にはなく、今日の平均人にはある、あの実用的な効力を持った膨大な部分的・具体的な知識と言う意味で用いている)がそれである。十九世紀は、平均人に前述のようなすべての力を与えた後で、彼を野放しにしてしまったのだ。ところで、平均人は彼の本質的な傾向に従って自分の中に閉じこもってしまった。かくしてわれわれは、かつてのいかなる時代の大衆よりも強力な大衆、しかし、従来の大衆とは異なり、自己の中に完全に閉じこもってしまい、自分は自足しうると信じ込み、何者にも、また誰にも関心を払い得ない(要するに手に負えない)大衆人と出会うこととなったのである。(後略)

引きこもり問題について

 昨今の引きこもり問題のニュースを見ていると、この問題は社会科学と認知科学をメインとするこのブログの核心に近い問題だなと思います。

・社会的背景から引きこもりの現状を考える(社会学
・社会と個人の関係を考える(社会心理学
・引きこもりの人の心理的傾向を考える(認知科学、特に発達障害

 この問題は引きこもりの人の個人的な問題として片付けることはできない。上記の三点の複合的な問題として捉えなければいけないのだろうと思います。時間を作ってこの問題に関する記事を書いてみたいと思う。しかし、この問題と深く関わる認知科学の「前頭葉」についての記事を先に書かなければ・・・

蓋然性と灰色の世界 ~ヒューリスティックの根幹~

ガイドライン追記用の記事です。

第16章 蓋然性と灰色の世界 ~ヒューリスティックの根幹~
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 上記の図をパッと見たときに①~③のどの答えを選択するでしょうか。答えは見てみないとわからない以上、③を選択するのが正しい答えと言えるかと思います。しかし、選択肢が①と②だけの場合ならどうでしょうか。恐らく①を選択する人が多いかと思います。真っ直ぐの方が自然な感じがしますし、曲がっている必然性があまり感じられません。実際、日常生活で上記のようなものを見たときも、真っ直ぐになっていることが多いかと思います。
 私たちの脳のシステム1は、基本的には蓋然的(もっともらしい)なものを選択する傾向があります。日常生活の中で上記のような問題に出会ったときに、③の「見てみないとわからない」という答えを常に選択していたのでは、ありとあらゆることに困難が生じると考えられます。

・食べ物に毒が入っているかもわからない。(気にしすぎである。)
・外に出ると災難に出会うかもわからない。(心配しすぎである。)
・恋人が実はロボットで、悪の結社の構成員かもしれない。(そうじゃない可能性のほうが高そう。)
・地球が丸いかは直接見てみないとわからない。(科学的な証拠を信じたほうが正しそう。)
・この世界が本当に存在しているかわからない。(とりあえず存在していると仮定しよう!)

このような判断をいつも下していたのでは生きていくことは出来ませんので、私たちは常に真偽はとりあえず棚に上げて、ほぼ無意識で、超高速で、数少ない事実を手掛かりに足りない情報を想像で補いながら、その時々の様々な蓋然性(もっともらしさ)を選択しながら生きています。
 しかし、ほぼ無意識で、超高速で蓋然性を選択しているので、ここでヒューリスティックやバイアスによるエラーが入り込みます。むしろ、この無意識かつ超高速での蓋然性の選択こそが、ヒューリスティックというものの根幹です。
 自分が蓋然的だと考え意思決定をして、その根拠をいくつか集めて、「この意思決定に間違いは無いだろう」と思っていても、それが確証バイアスに過ぎず、外部から見るとただのつじつま合わせにしか見えないということはよくあります。蓋然性とは、本人の主観で数少ない事実を組み合わせて、足りない情報を想像で補いながら、もっともらしさを作り出すということに過ぎません。かと言って、常に確証を求めていては、上記の例のようにまともに生きていくことも出来ません。また、人それぞれ選択する蓋然性は違いますので、考えの相違による争いが起こることもよくあります。
 哲学者のニーチェは「事実など存在しない。あるのは解釈だけだ。」という言葉を残しました。私たちは白も黒も無い灰色の世界を生きています。絶対に正しい答えが存在することは少なく、多くの場合、灰色の決断に蓋然性を求めながら生きています。その蓋然性は正しいかどうかわからず、確認さえ出来ないことが多くあります。私たちは確認することが出来ない多くのことを想像によって補いながら、変化し続ける灰色の世界の中で、灰色の決断しながら生きているということを心に留め、なるべく白か黒か拙速に決断することないよう心掛けることで、よりよい意思決定を行えるようになるのではないかと思います。

【73冊目】個性を捨てろ!型にはまれ! 三田紀房

個性を捨てろ! 型にはまれ! (だいわ文庫)

個性を捨てろ! 型にはまれ! (だいわ文庫)

 ドラゴン桜の作者が書いた本ですが、タイトルで秀逸な結論が出ています。現代人は「自由」「個性」「オンリーワン」などと言う、よくわからない概念こそが素晴らしい、という風潮に振り回されている面も多くあると思います。結果、自らの支離滅裂な思いつきを、自由や個性と履き違え、その考えに執着して、逆に振り回されるようなこともあるかと思います。型にハマって苦労することもあるかと思いますが、逆に常に変化する世界を捉えるための型枠をもっていないために、振り回されて苦労することのほうがずっと多いのではないかと思います。
 科学者は対象を表現するために、まず極限まで単純化したモデルを作って考えますが、それと同じでまず大事なのは型(モデル)を作ることなのだろうと思います。最初からオリジナルの型を作ろうとするのではなく、まずは既存の型をマスターし、その型をさらに良いものへ柔軟に変化させていく姿勢が重要なのだろうと思います。もちろんその型にこだわりすぎると、型にハマって苦労することになるかとは思います。

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認知科学から社会科学へ

 約四年にわたる認知科学に関する勉強は、次の「前頭葉」をテーマにした記事で一旦終わりにしようと思う。同じテーマばかり繰り返していても視点が狭まって先細りしていきそう。一旦空白の時間を置くことで、その間にまた脳の中で無意識に認知科学についての理解が深まっていくと思う。次は本来のテーマ?である社会科学に戻って細々とまた記事を書いていこうと思っている。
 ルネサンス、科学革命、宗教改革産業革命、市民革命を経て、近現代社会がどのように構成され、現在に至ったのか。少子高齢化現代社会のアトミズム(無縁社会、非婚社会など)の原因は何なのか?未来はどこへ向かうのか? ブログの初期から続けてきたテーマにここ数年蓄えてきたリベラルアーツ認知科学の知見を組み込んで、もう一度抽象化して、練りなおして書いていこうと思う。

論理的思考が身につかない理由

 本記事は以前の記事を土台としており、本記事の詳細についてはその記事を参考にしていただきたいのですが、論理的思考が身につかない原因というものを軽く考えてみたので書いてみようと思います。
 世の中には「論理的思考を鍛える方法」が書かれた本はたくさんありますが、それらを読んでもどうも論理的に考えられるようになった気がしない、ということがあるかと思います。どのようにして論理的思考を鍛えるかより、なぜ「論理的思考を鍛える方法」について書かれた本を読んでも論理的思考が身につかないのか、という逆のアプローチで考えたほうがよくわかるのではないかと思い、その理由を下記にて三点記述します。

①私たちの無意識下にある「考えようとしない力強い本能」についての明示的な記述があまりない。
 私たちは基本的には、半無意識下で発生するヒューリスティックという、言わば、早合点、思い付きによって意思決定を行っています。頑張って考えようとしても、無意識下にある「考えようとしない力強い本能」に足を引っ張られて、論理的に考えることが出来ないことがよくあります。その点について「論理的思考を鍛える方法」について書かれた本では、明示的に書かれていないことが多いので、そのことを強く意識することが出来ません。論理的思考がなかなか身につかない原因の一つと思います。

②アウトプットの重要性があまり強調されていない。
 論理的思考についてのテクニカルな部分ばかりが強調されていて、最も重要なアウトプットについて強調されていない。何かテーマを決めてひたすら大量にアウトプットする以外に論理的思考を鍛える方法はないと思いますが、その点についてあまり重要性が強調されていないのではないかと思います。赤羽雄二さんの「0秒思考」「マンガでわかるマッキンゼーロジカルシンキング」ではアウトプットの重要性がこれでもかと強調されていますが、その他の本ではテクニカルなことが中心で、あまりアウトプットの重要性は明示されていないように思います。
 アウトプット力が足りておらず、考える以前に考えるために必要な「要素」のアウトプット自体が出来ない場合が多い、という点の認識は重要だと思います。

③論理的思考の具体的な記述が多い。
 ②とかぶる部分もありますが、「こういう場合はこう考えろ。」というような具体的な記述が多く、抽象的な本質が結局よくわからなくなってしまうことが多いような気がします。例えるなら、数学の難しい方程式の答えだけ書いてあるような。

 

 論理的思考の本質は下記の三点にまとめられるかと思います。

・知識のインプット
ヒューリスティックやバイアスのメタ認知と、考えようとする意志力(批判的思考)
・「要素」「関係」「構造」(帰納、演繹)を意識したアウトプットの徹底的な積み重ね
 
 この三点を基礎的土台とすることで論理的思考の骨組みがスッキリするかと思います。

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【72冊目】社会心理学講義<閉ざされた社会>と<開かれた社会> 小坂井敏晶

社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉 (筑摩選書)

社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉 (筑摩選書)

 以前からこの本が欲しいなと思いつつ、ずっとamazonのカートに入っていたが、たまたま友人がこの本を持っていたので譲ってもらった。友人に感謝。表題の通り、社会心理学についての本ではあるが、少々難解であり、私に書評を書く力があるかどうか疑問ではあるが、ともかく書評を書いてみる。

 本書の論点を大きく二つに分類する。まず一つ目の論点は、現在の社会心理学への批判的視点を含んだ科学的な方法論についての言及。二つ目の論点は、社会心理学の具体的考察である。科学的な方法論に対する著者が持つ見解をまず明らかにしてから、その見解で全体的な総論を包み込み、二つ目の論点の社会心理学の各論へ展開していく流れとなっている。この書評もその流れに沿って、一つ目の論点についての要約、二つ目の論点の要約、最後に私の意見について記述したいと思う。

 まずは一つ目の論点について要約。
 現在の社会心理学実験心理学として細分化され、技術的な方向へ走り過ぎている。本質を忘れて些末な部分にこだわり過ぎている。マルクスヴェーバー、デュルケムのような長大な射程を持つ理論は放棄されて、細切れな小理論ばかりが提唱されている。科学とは実証である前に、まず理論的な考察が大事である。実証も重要であることは言うまでもないが、まずその前に哲学的思索、自由な想像力が果たす重要な役割を軽視してはいけない。
 学問で最も重要なのは新しい知識の蓄積ではなく、当たり前だと普段信じて疑わない常識の見直しである。社会には究極的真理や普遍的価値というものは存在しない。真理と思われていたことも時代によって変わっていく。常識にとらわれることなく、批判的に考え続けることが重要である。
  
 二つ目の論点は社会心理学の各論についての考察となっていくが、ポイントを下記の点に絞りたいと思う。ここでは要約だけではなく私の考えも交えながら記述したいと思う。

1、社会心理学とは何か。人間と社会の関係について
2、内的帰属と外的帰属
3、無意識下の意思決定と意識上の意思決定
4、認知的不協和理論の人間像
5、世界の変化と真理について

1、社会心理学とは何か。人間と社会の関係について
 社会心理学は自立する学問ではなく、社会学と心理学の両方に依存しており、それら二つの学問を結ぶ蝶番の役割を果たす。我々が提案する集団研究の目的は、個人力学と集団力学の間の恒常的な相互効果を強調し、集団が個人を形成・社会化し、行動及び思考形式を刷り込むと同時に、集団も個人によって生み出される事実を明らかにすることである。個人は単に集団に服従する集団ではない。集団環境によって人間の社会条件や表彰は規定される。しかし、同時にこれら社会条件を個人が変化させる(そして時には拒絶する)場合もある。
 人間と社会の関係を巡ってギリシア時代から二つのアプローチがしのぎを削ってきた。個人の資質から社会制度が生まれる方向(部分→全体)。社会条件が個人の行動を決定する方向(全体→部分)。しかし全体と部分は不可分であり、個人と集団の相互作用、循環作用を考える必要がある。現在の社会心理学は個人の心理に焦点を当てすぎているが、全体と部分を同時に考えないとシステムとしての相互作用は見えてこない。

2、内的帰属と外的帰属
 人間は自らの意思で行動していると普通考えられているが、外的環境によって、容易に、無意識に、その意思が左右されることが心理学の様々な実験により明らかにされている。物事の原因を人間の意思に求めることを内的帰属といい、外部環境に求めることを外的帰属というが、人は内的帰属を重視し、外的帰属を軽視する傾向がある。(根本的帰属誤謬)
 例えば、ナチスホロコーストがなぜ実行されたのか。あれほどの大量殺人の原因を、現場で作業に従事した実行者の意思だけに求めることが果たして妥当なのか。ユダヤ人をガス室に送り込んだ現場のドイツ人たちは全員血も涙もない鬼畜のような性格だったのだろうか。戦後の調査では、ホロコーストに従事した人たちは、人間的に異常な性格ということはなく、ごくごく普通の市民がほとんどだったという。ホロコーストの一連の「作業」が全て「分業制」と「流れ作業」となっていたことで、一人一人の作業が工場の作業のようになり、ホロコーストに従事した人たちの罪悪感が薄れたことに原因の一つを求められる。
 このように人間の思考を考えるときには、人間の意思力だけを考えるのではなく、外的要因についてもよく考えなければいけない。

3、無意識下の意思決定と、意識上の意思決定
 人間の思考は社会、歴史条件によって深く規定される。各社会時代に流布する世界観を捨象して心理プロセスはわからない。私たちは「意識」を持っているので、自らの思考は全て自らのアンダーコントロールにあるように思ってしまう。しかし、例えば私たちが日本語を喋るのは、果たして自らの意思での選択と言えるだろうか。これは視点によって変わる。自己の視点から見れば自らの意思によって日本語を喋っていると考えることもできるが、別の視点から見れば、日本に生まれたことにより半強制的に日本語を喋らされているとも考えることが出来る。どこからどこまでが自らの意思(内的帰属)で、どこからどこまでが外的要因(外的帰属)か線引きすることは不可能である。しかし、少なくとも、私たちが全て自らの意識上で何もかも決定している、と考えることは出来ないのではないか。
 認知科学の実験などでも、人間の無意識下の様々な決定が明らかになっているが、ルネサンスからの、理性や人格や意思が行動を決定するという西洋近代が生み出した個人主義的人間像をもはや盲信することは出来ない。

4、認知的不協和理論の人間像
 自らが何かしらの信念を持っている時に、外界からの何かしらの影響によりその信念と違う行動を取ってしまった場合、人はその矛盾を正当化するために自らの考えを変えて、その矛盾の解消と心の安定を図る。これは認知的不協和と呼ばれている。意思が行動を決めると我々は感じるが、実は因果関係が逆である。外界の力により、行動が引き起こされ、その後に発露した行動に合致する意思が形成される。つまり人間は合理的動物ではなく合理化する動物である。心的過程は意識に上がらない。行動や判断を実際に律する原因と、判断や行動に対して当人が想起する理由との間には大きな溝がある。人間は自由な存在ではない。自由であると錯覚するだけ。自ら主体的に選択したと思っても、我々は知らず知らずのうちに外界からの情報に影響を受けて判断や行動している。
 自律感覚の強弱に関わらず、外界の力によって行動が影響される度合いは誰でもあまり変わらない。しかし、自分を自由だと信じる人、自信が強い人ほど、外界の強制力に無自覚であり、行動を自分自身で決定したと錯覚するという重要な二つの結論がある。

5、世界の変化と真理について
 行為や判断の理由説明は所属社会に流布する世界観の投影を意味する。我々は個人で判断するのではない。集団的に生み出される枠組みやカテゴリーを通して世界の出来事を理解する。世界には普遍的な真理はない。我々の目に映る真理は、人間の相互作用が生み出す世界観である。真理だから同意するのではない。同意に至るから真理に映るのである。
 世界は不断に変化し、生成されている。固定された定点では世界をとらえることは出来ない。慣れ親しんだ思考枠を脱するためには、その対象だけを見ていてはいけない。対象が含まれる全体像を考えなくてはいけない。

 
 最後に私の意見を書きたいと思う。本書を読んでまず感じたのが、ポスト構造主義や仏教との通底である。人は変化し続けるこの世界の一部であり、その影響から逃れることはできずに、また無意識下にある思考も認識することは出来ないという全体論的な世界観は、仏教と通ずるものがあり、人間と世界の関係を的確に表している。まさに著者が冒頭で述べていた哲学的思索を土台とした長大な射程を持つ世界観と言える。
 人が外界の影響から逃れることが出来ないこと。また無意識下にある思考を意識上において認識することが出来ないこと。この二点により、全てを自らの意思によって行動するという西洋的な近代的人間像や、人の自由意思について、近年は批判的な見方も多くなってきているようにも感じる。確かに人間の思考の6~7割ぐらい?は自らが制御できない領域で発生しているのかもしれない。
 しかし、私は残りの3~4割は自らの意識上で確かに存在し、ある程度自由に制御することが出来ると考えている。その意識上の3~4割をうまく制御することにより、6~7割の無意識もある程度、大きな方向性を定めるぐらいには制御できるのではないかと考えている。自らの心が、自らの制御下にない部分が大きいという点に関して、人によっては悲観的に考えてしまうかもしれないが、自らが制御できない部分が存在していることを認識することで、出来ることと出来ないことを見極めて、逆に、より3~4割の思考の中で自由を増やすことが出来るのはないかと前向きに考えている。どこからが自由でどこまでが不自由かなどという線引きをすることは不可能ではあるが、自分の心の中に不自由である部分があることを知らずに、自分はの心は全て自分のものであり、自由であり、自由にコントロールできると思い込んでいるからこそ、逆に苦しくなることがあるのではないだろうか。本書は世界と自らの心の関係性を考えるうえで、非常に示唆に富んだ参考になる本だと思う。
 
 あとがきで著者はこう書いている。

(前略)どうせ人文・社会科学を勉強しても世界の問題は解決しません。自分が少しでも納得するために我々は考える。それ以外のことは誰にもできません。社会を少しでも良くしたい、人々の幸せに貢献したいから哲学を学ぶ、社会学や心理学を研究すると宣う人がいます。正気なのかと私は思います。そんな素朴な無知や傲慢あるいは偽善が私には信じられません。(中略)
 しかし文科系の学問なんてどうせ役に立たないと割り切って、自分がやりたいかどうか、それしか出来ないかどうかだけ考えればよいのだと思います。(中略)才能なんて関係ありません。やらずにはいられない。他にやることがない。だからやる。ただそれだけのことです。研究者も同じではありませんか。死ぬ気で頑張れというのではありません。遊びでいい。人生なんて、どうせ暇つぶしです。理由はわからないが、やりたいからやる。それが自分自身に対する誠実さでもあると思います。

 この考えには賛否はあると思うが、忌憚がなく、なんだか突き抜けていて清々しい考えでもある。

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