蟻の社会科学~リベラルアーツとロジカルシンキング~

自由に生きるため、この世界を知ることを目的としたブログです。ビッグヒストリーを縦軸にリベラルアーツを横軸にロジカルシンキングを最適化ツールとして。興味を持った方はガイドラインからどうぞ。

近代以前と近代以降の人々の視野

 「近代以前の人々の視野はとても広かった」と言われると違和感を感じるかと思います。「科学もなく迷信と宗教の中で生きていた人々の視野が広い・・・だと?・・・」と感じるかと思います。確かにある一面においてはその通りなのですが、近代以前の人々の視野は下記の意味においてはとても広かったのではないかと思います。
 なぜ彼らの視野が広かったというと、彼らは自然と直接向き合っていたからです。自然をコントロールする術を持つはずもなく、日照りによる飢饉、大雨による洪水、疫病に対して祈祷で対抗していました。自然が直接生命にまで干渉してくる世界の中で生きている以上、彼らは自然という大きなものを意識せざるを得なかったと思います。古代より人は宇宙や太陽を常に意識しながら生き、社会を作ってきました。中世西洋においては星(惑星)が社会と人間に影響を与えていると考えられていました。占星術など「あの人は火星という星の下に生まれた人だから・・・」等の考え方が本気で信じられていました。自然や宇宙のさらに上位にある大きな存在である「神、宗教」は近代以前の社会では絶対的な存在だったと言えるかと思います。ここで近代以前の世界観は非科学的で間違っているとかそういうことは問題ではなく、近代以前の人々の心は自然、宇宙、神という巨大なものと直接つながっていたということを強調したいと思います。
 職業の分化は農業の誕生とともに複雑になっていきましたが、産業革命以降職業の分化は爆発的に加速しました。アダムスミスの「国富論」がピン工場の分業の例から始められていることは有名です。一人の職人がピンを最初から最後まで製造するよりも、複数の労働者で作業を分担してピンを製造したほうが、ずっと効率が良く生産性が高い、とスミスは言います。なぜなら、分業の結果として、①個々の作業に特化することで労働者の腕前が向上し、②ある作業から別の作業へと移る際の時間が節約されるとともに、③各作業を容易にする多数の機械が発明されやすいからだ、というのです。(太字部分は http://dameinsei.hatenadiary.jp/entry/2012/11/23/052114 より引用しました。)
 このように科学革命を経て、産業革命以降は分業制の爆発的進化により社会は細分化、専門化されていき、人々の視野もまた細分化、専門化されていったと思います。そして現在の超高度情報化社会の中ではその細分化は極限まで達しつつあり、人々はインターネット上の自分の好きな仮想空間の中に閉じこもるようになったのではないかと思います。例えばネットのRPGに閉じこもったり、インスタグラムなどのSNSの中に閉じこもったり、Amazonでワードを検索するだけで数十、数百の商品が表示されたり・・・。
 だから何だというわけではないのですが、現代人は情報過多のこの時代、知らず知らずのうちに細分化された小さな世界に「閉じ込められつつある」という意識を持つだけでも世界観は変わっていくと思います。

参考記事
【書評】欲望と資本主義

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【67冊目】未来の年表 人口減少日本でこれから起こること

 このブログを始めたときのテーマは社会について考える「社会科学」だったはずなのに、最近は脳科学認知心理学などの認知科学が自分の中での主要テーマとなっている。蟻の認知科学とでも改名しようか。
 さておき、ブログの初期にメインテーマとなっていたのは「日本の少子化高齢化、非婚化、無縁化」とそれらが引き起こす近未来の日本社会についてだった。それらをすべて包括的にかつ具体的に説明してくれているのが本書である。(もちろんこのブログより詳しくわかりやすく面白い。)僕には日本の近未来について改めて書くことは、今はそれほどない。(時間の経過とともにまた社会について書くことが増えてくると思う。)
 安倍首相が先の所信演説で少子高齢化を「国難」と表現したが、まさにその通りである。2100年の日本の人口は4000万~6000万と推定されている。あと80年ほどで約6000万人~8000万人ほど減る計算になる。人類史上これほど急激な人口減少と高齢化を経験したことはない。もちろん日本だけでなく世界中の国がこの問題にやがて突入していくわけではあるのだが・・・
 重要なのはこれを「不都合な真実」として目をそらすことなく、自らに課せられた問題であるとして一人一人が、そして社会全体が考えなければいけないことではないだろうかと常々思っている。本書は日本の具体的な近未来を知り考えるための必読書である。

参考記事
ブログのガイドライン その2 社会の考え方
2020年代からの日本社会について
人口減少 日本の近未来 Diamond onlineより

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無知の知~私の中のミクロコスモス 脳と心と思考~

執筆中

諸行無常~マクロコスモスの中の私~

変化し続けるこの世界の中で 
 このブログを始めたのが2010年の年末なので丸7年経ちました。近年はあまりブログを書いていませんが考えることをやめたわけではありません。むしろ色々考え過ぎていてなかなか書くことが出来ないといいますか。年末の備忘録として一度脳内の大掃除をして、しばらく考えることから離れるために近年考えていることを全てまとめてみようと思います。
 そもそも僕が「考える」ようになったのは2008年からです。当時の僕は東京でサラリーマンをしていて毎日の目の前の仕事と生活のこと以外何一つ考えていなかったと思います。そんなときリーマンショックが起こりました。アメリカの投資銀行のリーマンブラザーズの倒産をきっかけに世界経済が大混乱に陥り日本経済も大きな影響を受けて僕の給料は激減したのですが、僕はどうしてもその原因が知りたかった。遠い世界の出来事がどのようにして僕の生活に大きな影響を与えるのかそのメカニズムを知りたくなった。今後また同じようなことが起こらないとは限らないし「そんなことを考えてもしょうがないよ・・・大切なのは目の前のことを一生懸命頑張ることだけだよ・・・」と自分を誤魔化しながら生きていく自信がなくなり、知ったところでどうなることでもないのだけれどその原因を知らずにはいられなくなりました。
 最初は “ 資本主義崩壊!! ” のような本を読んだのですが、何が書いてあるかわけがわかりませんでした(笑)。経済の本を何冊も読んでいるうちに少しだけ経済のことも理解できるようになり、経済はそれ単体で成り立っているわけではなくこの世界の様々な要因と関連しあいながら成り立っていることがわかりました。と言うかこのドロドロに溶け合って形の無い世界の一部にフォーカスし、その部分を切り出して「経済」と言う名前をつけることで「経済」が存在するのだなとわかりました。そのうち興味は自然科学、社会科学、人文科学の様々な分野に移り、今はリベラルアーツを学ぶ雑学勉強者?となりました。
 近年ある概念に強く惹かれるようになったのですが、それは今回のタイトルにもなっている「諸行無常」という概念です。仏教の根本的な考えの一つを構成する概念で「この現実の世界のあらゆる事物は,種々の直接的・間接的原因や条件によってつくりだされたもので,絶えず変化し続け,決して永遠のものではないということ。(コトバンクより引用)」という意味です。ウィキペディアには「生滅の法は苦であるとされているが、生滅するから苦なのではない。生滅する存在であるにもかかわらず、それを常住なものであると観るから苦が生じるのである。この点を忘れてはならないとするのが仏教の基本的立場である。(Wikipediaより引用)」と書いてありますが、これこそがとても重要なことなのではないかと考えるようになりました。
 生物や人はホメオスタシス(恒常性)という自らを一定の状態に保ち続けようとする本能を持っています。現状を維持し続けようとする本能、または保守性と言い換えることも出来るかと思います。人はホメオスタシスにより安定と変わらないものを求め続けるが、常に変化する世界はそれを脅かし続ける。これが世界と人の関係なのだと思います。そして目の前のことだけ考えていても問題はわからない、全体に目を向けないと問題の根源や本質はわからないという考え方が思考の第一歩だと考えるようになりました。
 ちなみにヘラクレイトスの万物流転、西洋哲学におけるポスト構造主義、フランス現代歴史学アナール学派クワインホーリズム全体論)、ウォーラーステインの世界システム論、比較的新しい科学である複雑系、MITのシステムダイナミクス、ピーター・センゲやメドウズのシステム思考 熱力学におけるエントロピー なども諸行無常と同じ方向性の考え方かと思います。また西洋的な考えでは「神」やプラトンの「イデア」のような絶対的なものを求めるのに対して、仏教ではその真逆の「変化」を根本においている。その対比が面白いです。

学び、考える
 世界も社会も人も考え方も全て流転していく中で、より良く生きていくには結局この変化し続ける世界を「受け入れる」以外にないのだろうと思います。そしてそんな世界を「受け入れる」ために必要なのは学び続けること、考え続けることなのではないかと考えるようになりました。「学ぶ」という言葉を聞くと多くの人はあまりいい印象は持たないかもしれません。学生時代のテスト勉強などを思い出して、どちらかというと 「修行」のようなつらいイメージを思い起こす人も多いかと思います。それは学校で次のような状態のまま勉強していたからではないでしょうか。「何を言っているのかわけがわからない先生」「ただ単純にこの先生が嫌いだ」 「全く面白くない授業」「1時間も座っているのがつらい」「そもそも何のために勉強しているのかわからない」「テストのためにやりたくも無いのに嫌々勉強している」etc…。本当は学ぶことは楽しいものだと思います。「自分が知らない新しいことを知る。」というのはとても楽しいことだと思います。新しいことを知り、新しいことができるようになるというのは人生の大きな喜びになると思います。「大人になってから勉強するなんて今さら勘弁してほしい。勉強は子供や学生がやることだろう。」と思っている人がとても多いことに驚きますが、学ぶということは本来一生続けることなのではないでしょうか。学び続け、考え続け、この変化し続ける世界を受け入れて、その変化する流れに乗っていくしなやかさと柔軟性が生まれたとき、人には今までとは違う新しい可能性と少しの幸せが生まれるのではないかと思います。

目の前のことと見えないこと
 僕たちの目の前にあるものは全て見えないところで発生しています。今、目の前にあるものはいずれ見えないところへ消えるでしょう。今僕の目の前にあるパソコンは工場で作られたものです。そのパソコンは以前は様々な金属やシリコン、石油などの原材料でした。ではそれ以前は一体なんだったのか。いや、そもそもこの世界を構成している素粒子、原子はいつから存在しているのだろうか・・・? 宇宙はいつ誕生したのだろう? 物質はいつ誕生したのだろう? 地球はいつ誕生したのだろう? 生物はいつ誕生したのだろう? 人類はいつ誕生したのだろう? 僕たちが生きている民主主義資本主義社会はいつどのようにして成立したのだろう? 政治ってそもそも何なんだろう? 経済って何なんだろう? 景気って何なんだろう? お金って何なんだろう?(もちろん僕も詳しくは知りません!)多くの人は上記の問いかけに対して「そんなこと自分には関係ない!そんなことを考えてもしょうがないだろう!」と言うかもしれません。では一体何なら関係あるというのか?「宇宙の誕生なんて自分には関係ない!政治や経済なんて自分には関係ない!」というのなら一体どこからが自分に関係あることと言うのだろうか?どこからこの世界と自分の関係を線引きすればいいのだろうか?宇宙も政治も経済も僕たちはその中で生きているのだから関係ないと言い切れるはずがありません。関係ない関係ない関係ない・・・ と世界を狭めていくと最終的には目の前のことと自分のことだけしか考えられなくなっていきます。目の前のことしか考えられないと、変化し続ける世界の中で変わらないものを求め続け苦しむことになるのかもしれません。
 もちろん目の前にあることはとても重要です。それこそが自分の世界の全てとも言えます。目の前にある現実を力一杯生きることより重要なことはないでしょう。僕のように目の前にあることの外側ばかり考え続けるのも良くないことだと思います(笑)。しかし、目の前にあるものは目の前にないところで発生し、目の前からいずれ消えていくということを意識する考え方もまた重要だと思います。

ビッグヒストリーとリベラルアーツ
 ビッグヒストリーという新しい分野の学問があります。デイビッド・クリスチャンという歴史学者が1988年から始めた歴史学なのですが、これはビッグバンから現在までの歴史の全てを自然科学、社会科学、人文科学の分野を横断しながら考えるという学問です。その視野の広さゆえに全体的に浅くなりがちですが、その視野の広さこそがこれからの時代とても重要なのではないかと僕は考えています。断片化、細分化された様々な情報や知識を抽象化して統合し再構成し体系化する能力を養うために最も適切な入り口がこのビッグヒストリーという分野ではないかと思います。そして、ビッグヒストリーから得た視野の広さを深めるために重要なのが以前にも紹介したリベラルアーツ(簡単に言うと様々な本を読むということ)という考え方になると思います。

砂状化する社会
 現在の超高度情報社会ではインターネット普及前には考えられなかったほど情報が氾濫しています。人々はあまりの情報の多さゆえに情報を取捨選択することをあきらめて、自分に都合がいい情報、自分が好きな情報だけを選択するようになっていく傾向があります。その結果、人は自分の世界に閉じこもり、社会は断片化、細分化され、砂状化していくのではないだろうかと思います。インターネット上で極限まで細切れにされた世界を人々が好きなように選択する状況を考えてもらえれば、社会の断片化、砂状化という言葉のイメージを持ってもらえるかと思います。また、少子化高齢化、非婚化、単身社会、無縁化などの概念も砂状化する社会にグルーピングされると思います。
 哲学者のオルテガ・イ・ガセットが不朽の名著「大衆の反逆」の中で下記のように述べています。

(前略)すなわち、十九世紀によって組織づけられた世界は、自動的に新しい人間を生み出したが、その際、その新しい人間に、恐るべき欲求とそれら欲求を満足させるためのあらゆる面に関する強力な手段とを与えた。つまり、経済的手段、肉体的手段(衛生状態と平均的健康状態はそれまでのすべての時代に優っている)、市民的手段および技術的手段(技術的手段と言う言葉を、わたしは、過去の平均人にはなく、今日の平均人にはある、あの実用的な効力を持った膨大な部分的・具体的な知識と言う意味で用いている)がそれである。十九世紀は、平均人に前述のようなすべての力を与えた後で、彼を野放しにしてしまったのだ。ところで、平均人は彼の本質的な傾向に従って自分の中に閉じこもってしまった。かくしてわれわれは、かつてのいかなる時代の大衆よりも強力な大衆、しかし、従来の大衆とは異なり、自己の中に完全に閉じこもってしまい、自分は自足しうると信じ込み、何者にも、また誰にも関心を払い得ない(要するに手に負えない)大衆人と出会うこととなったのである。(後略)

 ガセットが1929年出版の「大衆の反逆」の中で述べていたことが、圧倒的なまでの社会的自由と物質的自由を基礎とする現在の超高度情報化社会によって今後ますます先鋭化していくのではないだろうかと思います。そして哲学者のサルトルが言うところの「自由な社会の中ですべてを自分で選択しなければいけない「自由という刑罰」」によって人はますます孤独に陥っていくのではないでしょうか。過去と比較して変化の規模はどんどん大きく速くなっていく、そんな超高度情報社会を生きる人々は社会の変化の規模の大きさと速さに目を背けるようにますます自らの世界に閉じこもり、世界はどんどん砂状化していくのではないかと考えています。

まとめ
 最後に言いたいことをまとめると、今後の「変化は大きく速く、人々が断片化する諸行無常の社会」の中でよりベターに生きていくために重要なことは、この世界のことをより大きな視点で俯瞰し学び考えることなのではないかと思います。大きく速く動く時代の中で断片化された目の前の事象だけを考えていてもこの世界のことを考えることは出来ないのではないかと思います。そのために最適な入り口がビッグヒストリーとリベラルアーツいう新しい切り口なのではないかと考えています。
 自分の存在を「より大きなものの一部である。」「全体の中の一部である。」「宇宙の一部である。」と考える近代以前までの社会に存在した考え方を現代風にブラッシュアップして再び取り戻すことがこれからの時代を生きるためのよりよい手段となると考えています。
ブログ総論 その2へ続く

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「土地は捨てられるのか」 島根県の山林を相続の男性、国を相手に実験的訴訟

土地は捨てられるのか 男性、国を相手に「実験的訴訟」
朝日新聞:2017年12月4日20時16分
http://www.asahi.com/articles/ASKCY6787KCYUUPI003.html
http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20171204004582_comm.jpg
国に引き取りを求め、裁判で争った山林。敗訴した所有者の司法書士(右)は「国庫帰属の基準が必要」と話す=島根県安来市

■負動産時代
 人口は増え、不動産は価値を持ち続けるという「土地神話」を前提とした日本の土地制度が曲がり角を迎えている。
地方や都市郊外を中心に、資産価値を失って処分に困る「負動産」が広がる中、国も対策に乗り出しているものの、課題は山積みだ。 土地制度をめぐり対応を迫られている課題や見直しの動きを考える。
 いらなくなった土地を国に引き取ってもらおうと、国を相手に裁判を起こした男性がいる。 民法には「所有者のない不動産は、国庫に帰属する」(第239条)との規定がある。だが、どんな場合に国庫に帰属するかという基準はずっとあいまいだった。 「土地は捨てられるか否か」が直接争われた珍しい裁判となった。
 訴えを起こしたのは鳥取県米子市司法書士・鹿島康裕さん(41)。 2014年、島根県安来市の山林約2万3千平方メートルを父親から生前贈与された。 その3週間後、鹿島さんは山林の所有権を「放棄する」とし、所有者のいない不動産なので国が引き取るべきだと訴えを起こした。
 鹿島さんは、司法書士としての日常業務のなかで、持て余している土地を国や自治体に寄付したいというお年寄りらの相談をよく受けていた。 子や孫が地元から出ていき、このまま土地を持ち続けて大丈夫なのかなど、多くの人が不安を感じていた。
しかし、寄付を受けるかどうかは行政側の判断で、利用価値がなければ受けてもらえないケースがほとんどだ。
(後略)

 ルネサンスから始まった近代は科学革命、宗教改革プロテスタンティズム産業革命を土台とし、その上に経済学という手段を用いて現代社会を構成した。それらを支えた絶対的基盤は「科学の発展による人口増加」と僕は思っている。
 しかし上記の問題は近現代社会の根幹に疑問を投げかけているのではないか。人口増加を背景に絶対に動かない価値である「不動産」の普遍性を盲信することにより資本主義は成立してきた面が大きい。(日本のバブル経済も、先のリーマンショックも不動産神話が引き起こしたものだ。)いや、近現代社会に限ることではなく人類の歴史は土地を求める闘争こそが主題となってきたのではないだろうか。「土地を捨てる」という概念が生まれることこそ、社会の曲がり角であることを示す確かな証拠なのだろう・・・

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リベラルアーツについて

リベラルアーツについて
 リベラルアーツとは自由を獲得するための知識を増やす活動です。リベラルアーツのリベラルとは「自由」という意味で、その源流は古代ギリシアまでさかのぼります。古代ギリシアには、「自由市民」と「奴隷」の二つの身分がありました。自由人として生きていくためには知識を身につけていなければなりませんでした。なぜなら知識が無ければ人に利用されるだけの奴隷として生きていくしかなかったからです。自由に生きていくためには知識を身につけなければいけないという考え方、概念がリベラルアーツです。後に「文法」「修辞学」「論理学」の3学と、数学に関わる「算数」「幾何」「天文」「音楽」の4学で構成される「自由7科」として古代ローマに体系化されました。
 人は知識を得ると知識を得た分だけ自由になれると思います。例えば文字を覚えればありとあらゆる場面で役に立ちます。何が書いてあるかわからないという不自由から解放されます。パソコンの便利な機能を一つ覚えるとそれを知らなかった今までの不自由で非効率な状態から一つだけ解放されます。車の運転の知識を得て免許を取ればその分だけ行動の自由が増えます。徒歩や公共交通機関だけしか使えないという不自由な状態から解放されます。知識を積み重ねることで様々な不自由から解放されていきます。リベラルアーツとは知識を積み重ね思考の自由を得ることで硬直した不自由な価値観からの解放を目指した活動と言えるでしょう。
 ただし自由と孤独は表裏一体です。思考の自由を得ることで誰とも分かり合えない孤独に陥ることもあるかも知れません。しかし孤独を恐れることなく本当の「自由」を目指す勇気もまた必要なのかもしれません。下記に大阪大学文学部長 金水敏さんの言葉を引用します。世間からの「文学部って何の役に立つの?」という声に対する考えを語ったものです。

「(前略)その時、(文学部で)学んだ事柄が、その問題に考える手がかりをきっと与えてくれます。しかも簡単な答えは与えてくれません。ただ、これらの問題を考えている間は、その問題を対象化し、客観的に捉えることができる。それは、その問題から自由でいられる、ということでもあるのです。これは、人間に与えられた究極の自由である、という言い方もできるでしょう」
「人間が人間として自由であるためには、直面した問題について考え抜くしかない。その考える手がかりを与えてくれるのが、(文学部で)学ぶさまざまな学問であったというわけです。」

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【64~66冊目】海嶺(上)(中)(下) 三浦綾子


 江戸時代末期に現在の愛知県からアメリカのシアトル近郊まで漂流した音吉達(おときち)の数奇な運命を描いた小説。1832年、千石船宝順丸は乗組員13名を乗せて江戸に向けて出港したが遠州灘で嵐に会いそのまま太平洋へと漂流する。14か月の過酷な漂流の後、現在のシアトルの近くに流れ着いた音吉達だが13名いた船員たちは壊血病などで次々に亡くなり、生きていたのは 音吉 久吉 岩吉だけの3名だった。現地のインディアンの奴隷として過ごした後、北米を中心に活動していたイギリスのハドソン湾会社によって救い出され善意により音吉達は日本へ送り届けられることとなった。前述の漂流のプロセスと救い出された後、バンクーバーホーン岬、イギリス、喜望峰マカオを経由して5年かけて日本へ向かうプロセスが構成の中心となっている。そしてそのプロセスを通して本書の根底に流れるのテーマは「キリスト教」「強い望郷の思い」である。
 キリスト教が禁止されていた江戸時代に生まれた音吉達は日本へ帰る旅の中で、ことあるごとにキリスト教へ触れることとなった。キリスト教が邪教と言われていた時代に生まれた音吉達の心に植え付けられたキリスト教への恐れと、旅の中で触れるキリスト教徒の心からの善意との間で音吉達はキリスト教が本当に邪教なのかという葛藤を覚える。敬虔なクリスチャンである作者は押し付けることなく、この音吉達の揺れ動く葛藤を通してキリスト教の本質を読者に伝えようとしている。また本作のもう一つの根底をなす音吉達の望郷の思いは同情なくしては読むことが出来ない。ただ故郷のことだけを思い音吉達は数年を過ごした。ようやく日本へ到着し上陸しようとした音吉達が乗ったモリソン号だが、当時の江戸幕府鎖国政策により大筒により砲撃され、接岸することなく立ち去るしかなかった。そこで本作は終わるのだが、作中で繰り返されてきた音吉達の強い望郷の思いと江戸幕府から砲撃され立ち去るしかなかった状況であっさりと終わらせたこととの対比により、読後の寂寥感を強く感じることが出来た。

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